12.03.2009

音が音でなくなる瞬間の音

sane masayuki + romain kronenbergを聞いた。
何かが始まる穏やかな緊張感と、深い陶酔めいたリラックスが同時にある音だった。
まるで、人知れず結晶する鉱石が光る様子を見ていたかのような。
表現とは個を表すことではなく、個と宇宙の接点を拾い上げ、顕すことだという私の思いとも共鳴して、響きは全身に染みわたり、時間が消えた。
いいとか悪いとか、好きとか嫌いすらどこか超えて、二人の音はある「有様」であり「態度」だったように思う。
覚えているのは音ではなく、そういうこと。
私にとっての音楽は結局のところそういうことなんだろうな。

12.02.2009

le temps

なんだか濃厚なひとつきを過ごし、頭が色々な情報や感情を処理しきれないでいる。
こんなに感情的に起伏のあった時間は今までないかも、と言えるくらい、喜怒哀楽そしてそれぞれの間の全てがジェットコースターのように私をさらっていった。
その嵐自体は穏やかだったことも奇妙で、押さえつけるものもなく、縛られることもなく、凪のような時間が私にとっては温暖化のせいで狂った天気のようで。
ゲリラ豪雨が降り、稲光がしたかと思うと、突然の青空が広がり、気がつくと雹が降り、虹がでる、というような。
結局、思い知ったのは自分のくだらない思い込みやどこかで拾ったようなチープな期待が、この天気の元凶だということで、それがあまりに馬鹿らしいのでちょっと沈黙などしてみて、で、知らん顔して受け入れようと思った。

しかして、気付くという知性は知恵とも知識とも隔たるものとして、どうにも大切であるわけで、あまりに普通のことばかり言うと頭がおかしいと思われるのだ、ということに対して、どういう態度を取るべきか。
謎と愛と救いと留保。
今はそういうことで。

11.18.2009

くさび

微妙に頭が混乱している。

物事のプライオリティを決めるのは難しい。それを決めるのに様々な尺度が関係するからだ。
そして尺度にプライオリティを付けるのはさらに難しい。
なにしろ尺度そのものが状況の変化や気分次第で時々刻々変化しているのだ。
揺れ動く価値や感情にくさびを打つ、順序付けの作業は、その行為自体が時間の中にあり、言えるのはあくまでも「くさびを打った瞬間」の話だけで、結局いつもそれは過去の話。

そんなこんなを思いながら、他人との距離について考えていると、やっぱりソリトン的にしか生きられないのだろうかと憂いにも似た清々しさも今日に始まった話ではなく・・・。
しかも思いつめるほどの切迫も吹き出すほどの諧謔も無いなんて。
んー。

11.12.2009

美しい島



台湾に初めて行ってきた。
国外に出かける、という点以外において、そこまで気乗りしていたわけではなかった旅行が、大きな発見の旅となった。


思いがけない偶然や、嬉しい再会や素敵な新しい出会いや、亡き友人の思い出や、まあつまりそのすべてに導かれ、「感極まった」状態で帰国した。
たった1週間弱だったけれど、日本への帰国に胸が張り裂けそうになった。
こんなに「日本に帰りたくない」状態になったのは、よく考えると初めてで、改めて、そこになんとかして「帰らなければ」と今は思う。
今まで訪ねて、気に入って、住んでみたいと思ったことのある国や場所はやまとあるものの、ここまで明らかに感じたことはなかった。
景色、人、食べ物、文化、言語。それぞれの場所には独特のそれらがあるけれど、そのすべてに同時に驚き、魅せられ、かつ、受け入れられたように感じたのは幸せな体験と言っていい。
それは旅行者の浮かれた視線なのかと考えてみるものの、そうであってもいい、としか思えない、それが、まさにそうである証拠だとしても。
旅行者こそが誰よりも明瞭に見る景色もあるのだから。

10.11.2009

物があった、音があった、光があった、色があった




美しかった!
ただただ。
そうであるとされた用途や目的を超えて混ざり合う、この地味で無音のコラボレーション。
方向性も結論もない「様子」、「有様」こそがやっぱりぐっとくる。
また同じメンバーできっといつかどこかで。

9.24.2009

No+Yes=ころころ

頑張るべきことと頑張るべきじゃないことの境目は微妙だ。
結局、頑張って=無理して、自分の領域を出て、得たことより、頑張らずに=自然に与えられた、拾った、もののほうがしっくりくる、ということはよくある。
とはいえ、たまには自分の領域を出ることも重要だし、拾ってはいけないものを拾う可能性もある。
領域、という概念の位置づけにもよる。
積み重ねた知識や経験、わかっていること、とするならば出ていくことも一興だが、自分の行くべき場所全般(ただしそこに全て行ったかどうかは問わない)とするならば、「領域を出ない」行為の中にもやっかいなことがあるだろう。
その行為は「頑張る」なのか。
そうであるなら「頑張って」もいい。
それは動きながらぼんやりと待つかのような、どこかそれ自体が反語のようなことかもしれない。

最近は何か新しい壁にぶつかるたびに「それ、やったことある?できる?」と自問してNo+Yesであることを優先的にやろうとしてみている。
そうすると、何かがころころと転がってくる。
見たことのない果物や、初めて見た鉱石のような、知る人には大したことがないけれど、私にだけは意味があるようなものが。
そして私もなにかころころと転がせていればいいんだけど、と意識できないながらも見えない自分の足跡を振り返る。

9.07.2009

地図への旅、完結

「地図への旅」は終了しました。

お越しいただいた多くの方々にこの場を借りてお礼申し上げます。
ありがとうございました。
また、参加いただいた5人の作家の皆様(勝正光さん、四宮優さん、曽田朋子さん、長沢暁さん、西尾千尋さん)、おいしいお菓子を提供していただいたクロネコカシヤさん、ライブを通して展覧会の別の側面を生みだしてくれたsane masayukiさんと津田貴司さん、そしてこの企画の実現に力を貸してくださった、ギャラリーみずのそらのオーナー小峰さん、本当にありがとうございました。
好きな作家、好きなお菓子、好きな音楽、好きな人たちに囲まれ、私は幸せな時間を過ごすことができました。

今回は「地図」というテーマでの展示でしたが、6人に通底するサブテーマは「知覚」であり、その態度が一見ばらばらに見える作品を結びつけていたように思います。
地図はただ見ているだけでも美しく、面白いオブジェクトですが、移動、変遷、変質のドアとしての機能やそれを意識する鍵としても存在していることがありありと(またはひっそりと?)伝わる展示になったのではと思っています。
ぜひ感想をお聞かせいただければと思います。

個人的にはこの展示がどこかに巡回できたら、などとも思っています。
もしくは別のテーマでも。
ご意見やご依頼、大歓迎です。

今後もさらに精進してまいります。
また次の展示でお目にかかれますよう。

梅田香奈拝

8.31.2009

「地図への旅」特別企画x2


今回、ギャラリーみずのそらで企画している「地図への旅」という展覧会で2つ、特別企画も同時進行します。
ぜひ展覧会と一緒にお楽しみください!

・遠藤真紀子さんによる2日間限定カフェ「くろねこかしや」

展覧会期間中の9/12-13だけ、ギャラリーのカフェにて特別メニューがセットで召し上がれます。
甘いものは大好きながら、甘すぎるものがダメだったり、甘くないお菓子が嫌いだったりする、めんどくさい私が選んだお菓子作りのプロの「作品」。
展覧会のテーマにあわせて、オリジナルでメニューを考案してくださいました!
お持ち帰りのお菓子も用意していただきました。

sane masayukiさん、hofli(津田貴司)さんによるライブパフォーマンス

9/19、19時より展覧会場にて2500円(1ドリンク付き)でライブをしていただきます。
私自身がファンであるお二人に展覧会場で演奏していただけることになりました。
作品にも会場にもぴったりな音で、今からどんなことになるか待ちきれない思いです。
こちらのイベントについては予約を受け付けています。
当日であっても、ギャラリーまでお電話いただけると嬉しいです。


8.23.2009

鉱物

好きだと解っていながら、なぜか遠ざけ、目を背けていたものがある。
それももう限界で、やはりだんだんと近づいてきてしまった。

石だ。鉱石。

正直言って自然物の中で最も美しいと思う。
水晶や石膏など、特に透明な石には我を忘れるほど見入ってしまうし、景色も、草原や海原よりも、岩がむき出しになった絶壁や崖や巨岩に魅かれる。
数年前にハワイの溶岩を見てからは世界中の溶岩が見たくてたまらない。


ガラスも固体が常態ではないとはいえ、一種の鉱物だ。
きっと変形できる鉱物だからガラスにも触りたかったのかも。
陶土に興味が無かったのは、可塑性が私をひきつけたわけではないという証明。

そんなことを考えたか考えずか、私が手にした石はただ静かに光る。
今までも、これからも。
私なんて馬鹿馬鹿しい、といわんばかりに澄ました顔で。



出身地と音符

勝手なリズムで生きていて、勝手に自分だけの単語や略語を作り出す人たち。
新しい感覚を得るためではなく、ぴったりな感覚を得るために。そしていろんなことを茶化して線引きを曖昧にするために。
もっと言うと、もともと無かったところに引かれた境界線を無化するために。
どこか周りとフィットせず、自分が確かだと感じる磁場だけを踏みしめて、言葉さえも(外国語ではなく)「異国語」を話す。
そんな人たちに共感するわけだけど、よく、”出身地”が同じ/近いのでは、と思う。
生まれた、とか、育った、とかではなく、精神的な出自としての「場所」。

私の頭の中にある地図は実はそういう地図だ。
それは物理的な距離や人種や言語の違いはあまり問題とはされない、多層的で、空想的な地図。
先日読んだ本で「地図」という概念が無い国のことが描かれていて、地図を知る国から来た人々がその国の人に地図について訪ねると、その国の人たちは「それは楽譜のことですか?」と応えていた。
私の頭の中にそれらしき旋律はないけれど、その勝手な解釈については共感した。
「出身地」は「音符の大きさ」で決まる、とか、そんな出鱈目しか実際信じたくないものだ。

8.10.2009

「地図への旅」展覧会告知

展覧会を企画しています。私も出品します。


「地図への旅」

位置や距離を示す俯瞰図としての地図を見る行為は、自分がどこにいるか、どこに行こうとしているかを「知る」こと、「わかろうとすること」のメタファーではないでしょうか。
いろいろな要素が複雑に絡み合いながらも単純に純然と世界が存在していることを理解しながら、認めながら、俯瞰図を俯瞰し、新たな地図を作る。
そんな思いから、様々な素材やメディアを使って制作・発表を続ける作家とともに、「地図への旅」へ出ようと思い立ちました。西荻窪の住宅街にひっそりと佇むギャラリー+カフェみずのそらでゆっくりと寛ぎながら、作家たちの地図への旅を眺め、感じ、参加してみませんか。

日時:9/5(土)~9/20(日)12:00-19:00(最終日は17:00まで)

会場:ギャラリーみずのそら http://www.mizunosora.com/
住所:杉並区西荻北2-25-2
Tel:03-3390-7590
展示作家:勝正光、四宮優、曽田朋子、長沢暁、西尾千尋、梅田香奈

勝正光


四宮優


曽田朋子


長沢暁


西尾千尋


梅田香奈

同時開催イベント:
・9/5(土)18:00ごろ~オープニングパーティー
・9/12(土)-13(日)くろねこかしや(遠藤真紀子さん)による2日間限定カフェ
・9/19(土)19:00~Sane Masayukiさん、Hofli(津田貴司)さんによるライブ
(1ドリンクつき2500円。当日は予約なしでもご入場いただけますが、ギャラリーまでご予約いただけると助かります。)

ご高覧いただけますと幸いです。

方向感覚

人と会うインターバルの長さが会話から日常を濾すことが割と好きで、日常が積もるチリとなり、単なるアップデートの対象となる感覚が好きだ。
内容、人によっては伝える必要もなく埋もれていくチリの中から、現在の自分を形成するにあたって必要であったことを抜き出す作業はまるで記録映像を眺めるかのように客観的かつ直截的。
これができる関係の人が結構いる、というのは精神衛生の観点からいっても喜ばしい。
感覚、感情そのままに瞬間を過ごして居ればこそ、それを振り返る時間が必要で、彼らに会い、話すことでやっと「自分」から出る気がする。
年齢も性別も関係の時間的長さも少しも重要ではなく、無我でも自我でもない場所にただただ「いる」ことができる。
最近気づいたのだけど、そういう人たちと一緒にいると私の場合、極端に方向感覚が弱くなってしまう。普段から結構弱いので気づかなかったけど、ちょっと可笑しいくらい迷ったり、大事なサインを見逃したりする。意識が「移動」と結びついていないのと、単純に注意力が分割できないんだろうけど。
西新宿や西荻で迷った人、そういうわけなんです。

8.05.2009

”人間は考える管である”

ゆっくりとだが、こうなればいいなぁ、こうしてみたいなぁと口に出したことが現実になってきている。
言霊とかアファーメーションとかいろいろ言われ方はあるけども、私としては、ある種の波動のようなものが自分の体を通り抜ける過程での一つの効果では、と思っている。
先日、絶妙なタイミングで動的平衡という概念についての本を読んだことも影響しているかもしれない。
生命活動そのものが、移り変わりながらそれ自体を維持するシステムであり、効果であるという考え。
ミクロな生物学の世界においては、身体はタンパク質の「淀み」である、という表現もあり、自分が日ごろ感じている「感じ」があまりにぴたっと学術的に表現されているのがもはや可笑しかった。
体や概念や物体の「切れ目」「境目」「輪郭」が基本的に感覚としてわからない私としては、その本に出てきた、「生物学的には胃の中も”体外”である(胃が分解吸収される以前の状態の貯蔵庫であり、内部としての体に取り込まれていない)」という表現や人間とチクワのトポロジー(!)(人間は口から肛門に至る一本の”外部としての管”に貫かれた存在である)にもいたく感銘を受けた。

ともあれ、結局、「希望」や「想像」も何かが管としての/分子の淀みとしての自分に取り込まれた結果として発生し、そののち周りの分子や波動やらを取り込んだり集めたりした効果として、それが「そうなる」のは大局的に考えればいたって自然な営みのようにも思えるのだ。
極私的には「奇跡」という感覚や「感謝」の気持はもちろんあるし、決して軽視していないけれど、それらすら「ただある」ことの過程で生成される状況なのかもしれない。
で、何が言いたいんだっけ、と考えると、結局どこまで透明になれるのか、透明な淀みになれるのか、ということなのかもしれないなと思う。
輪郭もすべて消し去って、自由に内部と外部が交わるような淀み。
まだまだ黒々とした淀みである私としては先の長い話ではあるが、そう願う・願えることはそうなれることの側面であるとするなら、きっといずれ透き通るのだろう。
その黒さにおいて迷惑をかけられている周りの人たちには、今しばらく辛抱してもらうしかない。
どうぞよろしく。

7.31.2009

丘陵の音

不思議な音体験をした。
空の高いところから様々な地形の上を動きながら遠くを眺めているような音。
そういう「気持になる」というより、「それを見ている、と感じる」、という意味で「体験的」でニュートラル。
覚えているのも音ではなく、視覚的なイメージで、なだらかな丘陵や遠くの虹だったり、どこか共感覚的ですらあった。

声高に「地球」や「緑」や「環境」を礼賛するわけではないが、自然に作られたもののすごさにはいつも魅せられる。
水晶の結晶のしかたやクモの巣の仕組み、爪の伸び方や海岸線の美しさなど。
理由があるようで理由がなく、効率だけのようで効率だけではない、「そうなっちゃった」という有様には有と無のどちらをも感じる。
もしくはどちらでもない何か。もしくはその両方である何か。
それが場所だとしたら、人間もそこに立てると私は思っていて、そのためには削ぎ落すことと取り込むことや、意識を持ちながら無意識になる、という相反する状態を獲得することかな、と思う。
人生で、行きたい場所といえばそこだけしかないかもしれない、というくらいそこには行きたいと常に思っている。

上述した音にはその場所を目指す意志/(と意志抜きの)成り行きの両方が感じられ、それがピタッと私の意識とリンクしたような気がした。
更けゆく空の先端に「そこ」があるのでは、と、音を聞きながら明滅を繰り返すビルのライトを見る。
結局行きたいのはどこでもない場所だけだというのは過分に詩的なのかシニカルなのか。

7.20.2009

全員支店長

私だけがその人たち全員を知っていながら、その中にはいない、という状況があり、それをちょっと外側から見たのだが、なかなか面白かった。
こことここが繋がるとこうなるのか、とか、自分のシナプスが人間に化けたような勝手な妄想までして楽しんだ。

最近は新たに人と知り合っても、結局共通の知人がいるということのほうが多い中、人と人は一体どうやって繋がるんだろうとつくづく不思議に思う。
まったくの赤の他人とも6人辿れば繋がるとかいう社会学の研究があったらしいが、6層どころか2層くらいで繋がる人の多さ。
不特定多数に発表するということをやっているのだから、まあ当たり前といえば当たり前なんだろうけども、実際、「出張の多い、全国規模の同じ会社に勤めている」と考えるほうがしっくりくるほどにそれぞれがそれぞれを知っていてそのつながりは巡っている。
横浜に行けば”横浜支店の田中さん”に会い、”静岡支店に最近赴任した山口さん”について話し、”杉並支店の斉藤さん”と”札幌支店の遠藤さん”が遠縁だと知る、という、そんな会社。
固定給も昇進もボーナスもないし上司もいない、この会社、解雇がないからといっていいことだけではないけど、実際結構悪くない。

7.09.2009

道のり

先日、しばらく展示していた作品を撤去した。
泣きたくなるほど途方に暮れながら展示した作品にはどこか特別な思いがあり、てきぱきと作業をすすめながらも、何かが終わっていく独特の静けさが心に残った。

展示というのは何度やっても特別な経験だ。
何かを作る人は作ることにだけ力を注いでいるわけではなく、それがどこにどう置かれるか、ということに心を砕くことは実はあまり気づかれていないような気がする。
気づくべきは作品そのものであって、それを実現するための行為は別に気づかれるべきことではないので、それでいいのだけど。
ミュージシャンにおけるライブのような緊張と興奮があるのは実は展示をしている時間やそれが終わる瞬間であって、作者はそれらを独り占めできる贅沢を持っている。

私は、どうも気質として道程を好むのか、単に怠惰なのか頭が悪いのかセンスが無いのか、ここに時間をかけることが多い。
口では早くできるようになりたい、とは言うものの、実は結構楽しんでいる。
その感覚は旅行のそれにも似ていて、早く目的地に着きたい反面、永遠に着きたくないような気持ちにもなる。
学生時代、数え切れないほど京都に各駅停車の電車で旅行をしたのもどうもそういうことと関係がありそうだ。

話を展示に戻すと、様々な可能性や様々な空気と関わりながら、自分の作品や自分と対話をするというのが私が「仕事」に求める要素なのかもしれないと最近はよく思う。
ゆっくりと時間をかけ、休んだり遊んだり食事をしたり悩んだりしながら一つ一つ場所を決め、何かを立ち上がらせる。
生きることに本当に似ている。
真剣であることと気を抜いていることと集中していることと散漫なこと、実はその全てがあって初めて見えてくる次元があり、それが本当に大切なことだ―と少なくとも私はよく思う。
そうできないことは少しずつでも排除していけばいいし、こちらが避けていればさほど寄ってくることもない。
様々な事情で急かされたり余裕がなくなったりすることもままあるけれど、そこは都合よくキリスト教的な「乗り越えられない試練は与えられない」を流用して前へ進む。
たとえそれが「頭が鈍いので、普通なら避けられたハードルも避けられなかった」ということだったとしても!
考えるべきときに考えるのと同様、考えるべきではないときに考えないのも一つの知恵。

7.08.2009

脱皮とドア

離れがたいというわけではない。だいたいいつもあっさりと別れる。
どこかで、離れるとか離れないとかそういうことが問題ではないという意識も働きつつ、だったらどちらかが「ココ」にいない状況でも何の影響もないはずなのに、会ったときの充実感たるや、「会いたい」と思ってしまいそうになるほど。
会いたくないわけではまったく無く、実際よく会いたいと思ってしまうけれど、会いたいという気持ちともきっとどこかが決定的に違う。
そういう積極性によって交差する関係ではないというか。
補い合うわけではなく、単に隣で成長する木の芽同士、かのような。
同じ養分を吸い上げ、同じ光を浴び、葉を触れ合わせることなく、互いに花を咲かせる。
そして二人が話す言語は同じで、風の読み方も同じなのだ。
実は最初、その人の存在が信じられなかった。

何かを得て初めて「自分はこれが欲しかったんだ!」と気づくことがあるが、知り合ってすぐにそう感じた。
その年はそう思える人に数人出会うことができ、次々と自分が何を求めていたかを気づかされることになった。
おかげで、七夕の短冊に堂々と書けるような潔さでは意識すらしていなかったところに今では自由に行き来できる。意識の皮が剥けたかのよう。
今では人に出会うこと自体がドアを開けることだとはっきり五感で知覚している。

思えばこれも、その人に出会うことから始まったことのような気がする。
憶測や想像や邪推による押し付けがましい感謝はしないようにしたいが、やはり結果としての感謝はしておきたい。
私の思うところの「優しさ」―優しさは結果の一解釈であり、当然の行動をとった当人は「優しさ」を意識できない―と似て、感謝された方としてはワケのわからない話なんだろうけれど、ま、一応、いつか感謝の言葉を述べてみよう、かな。

6.25.2009

くせ毛?

人前で発表するなんて嫌いだ、だから物を作って(代弁させて)いるのに、とぶつぶついいながら発表している人を見た。
そして彼女は言葉で語ることの無為について「語り」、聴衆に沈黙を強いた。

何重にもひっかかるところがあって、どこがスタート地点なのかもよくわからないけど、やはり「(自分は)言葉では現せないからものを作っている」という認識に対する違和感かもしれない。
言葉では表せないことを現すのはいいし、自分が言葉では言い表せないのも別に知ったことではないが、それって因果関係?と。
彼女は、沈黙こそが最も雄弁であることに気付いてほしい、というようなことも言っていた(だからこそそれを強いたわけだろうけど)が、あまりに陳腐で赤面しそうになった(または最近意気揚々と飲んでいるビールのせいで本当に赤面していた)。

自分の表現方法を信じるのはいい。それを人に語るのも自由。
ただ、真に豊かな言葉でのみ発掘しうる、語られ得ぬ地層に到達しようとする有様をも捨てるのを強要しないでほしかった。
表現の定義にもよるけれど、それが己を「出す」だけではなく「映し」たり、「示し」たり、「探る」ことをも含むのなら、言葉の否定は自己矛盾を生むはず。
少なくとも私が思う言葉は氷山を掘るスコップのように、「足らないけど、無いよりはまし。たどり着こうと/掘りだそうとはしている。」態度そのものなので。
こんな私の勝手な定義に共感があまりないのも含め、個々人の定義が違うのは構わないし、パフォーマンスとしてなら、それを押しつけがましく見せられるのもそこまでいやではないが、意見として、聴衆を前に語られるのを聞くのは単純にきつかった。
きっと私が上記のようなことを聴衆の前で語るとしても、多くにとって、それは「きつい」んだろうとは踏まえた上で・・・。

いずれにせよ、言葉を介さないイメージを作る人たちの中に多い、「言葉否定派」。
自分の言語表現能力が低い、とだけどうして言えないのか、本当に疑問。
実際低くて悪いなんて誰も言ってないんだし、「走るのが遅い」と同じ、人それぞれに備わった資質なのに。
「私、くせ毛なんです」くらい、「あそう(それでどうしたの?)」っていう内容なんだと思うんだけど・・・。

6.22.2009

フリル

好き嫌いなど、考えても変わるものでも解るものでもないものについてが問題となるとき、決断するのは楽だ。
けれど、根本的なところでは多くのことはだいたいそういうことなんじゃないか、と思う。
考えてみたら、努力してみたら、だんだんXXXになってきた、というのはどうも信じがたい。
人についても、努力して変えられるような次元で好きにも嫌いにもならないし。
表層の好き嫌いは深層の好き嫌いのフリルでしかない。
幼稚園のとき、ウェディングドレスを見てフリルをおぞましく感じた感性は今も同じで、そんな「彩り」を身に着けないで済むならばかえって喜んでフリルをこそ作りたい。

布付き棒

ゲリラ豪雨の中、誕生日の夜を迎えた。
どうも傘との相性が悪い(傘を持って出ると雨が止み、傘を持たなければ雨が降る)私は自分を「傘女」と呼んでいるが、先日面白い傘に出会った。
霧雨しか降らないイギリス製のその傘の繊維はあまり密に作られていないらしく、豪雨にまったく耐えない。
耐えない、というのは雨を通す、という意味で、傘を差していながら、傘の中に霧雨(もしくはそれ以上)が降る!
傘を差しているのにぐっしょり濡れるんだ、と持ち主は愚痴りながらも気に入っている様子。
私もそれを聞いて、その「傘の中の雨」を体験して、すっかり気に入ってしまった。

結局、傘を差しているから濡れない、ということも別に法律で決まっているわけでなし、勝手な思い込みなんだろうと思えて可笑しくなった。
それは傘ではなくただの布付き棒だろう、という話になったが、それこそ他の傘もみんなそうで、結局形状や習慣からモノの持つ「それ」らしさを私たちはいかに決め込んでいるか、を思い知らされるような気がした。
たとえば1億本の傘を見たことがあって、すべてが雨から濡れないためのものだったとしても、その1億1本目に見たり使ったりした傘がそうでなかったら、それはそうではない、というだけだ、という当たり前の理屈。
無理やり既成のカテゴリに入れる必要は無く、「今までにない」という単純なラベルの元、分類を分ければいい、分類したければ。

こんなに頭を気持ちよく刺激する、その布付き棒バンザイ、雨バンザイ。

shape

Sometimes I think in English so that I can have a perspective on what's going on in or around me.
I am not too good to be "able to" be trapped in the language or not too bad to express myself in it.
Especially when I get too close to whatever things I'd think I manage to do but possibly couldn’t, thinking in English would just give me the perfect room I'd need to keep from those things.
Of course it also helps me collect thoughts that would otherwise scatter around...

The other day, I was thinking about the idea of trust and betrayal, supposedly opposed to each other.
The two emotional elements, which, by the way, have never been bound together in my mind or experiences and the idea of which has bugged me because of that, finally came off completely when I found a better word, "expectation" to complement the latter.
As I wrote in this blog somewhere, trust has the shape of a sphere that does not have "the other side" of it by its nature.
It's just so round you don’t know which is up or down, where it begins and ends, and if it ever has the front and back.
It's not even connected to anything in any way: at least that's how I feel.
On the contrary, "expectation" has a shape of a thin paper which has two sides just like betrayal does: in fact, they are each other's "the other side."

As much as trust is a sphere, I feel any idea or concept has its own unique if abstract shape: what we only can do with it is to find and appreciate as is.
I am not saying that we should always compare ideas to shapes but to try to understand what they really are to us.
If I can go on like this, I should inevitably discuss words as a vehicle though...but not in detail here today...

Anyway, I will stop here by saying seeing what you see matters more than you wouldn't believe.

(to be continued)

6.10.2009

to be or not to be?

意味ありげに、無意味なことを言うのが好きだ。
もしくは、意見のような描写。

騙しているわけでも、騙す意図があるわけでもないが、気づいてくれそうな人にだけちょっと言ってみる。

AかBしかない状況で、おもむろに「結局さ、AをするかBをするかのどっちかだよねー」など、言う意味自体まったくないことを言うことで、事態を撹乱ならぬ攪拌する。
実はTo be or not to beのもじりなんだけども。と、これもでっち上げ。か。

何にせよ、状況は温存したまま、会話を「中二階」的なところに浮遊させる展開が本当に好き。
こんな私の密かな楽しみに一番激しく反応してくれる(地団駄を踏んで悔しがったりする)誕生日と携帯の機種が同じである、Kちゃんと居た日にはもう、それは。
会うなり嘘と本当の間に落ちている落ち葉を拾う、か拾わないか、まあだいだいそのどちらかをしている。


6.09.2009

観察と疑問

子供のころ、箸が使えるようになったのが嬉しかったのか、電話帳を箸でめくっていた、と聞かされた。
帽子に長靴、という「制服」を着て、隣にある公園に公務員さながらの几帳面さで「通勤」していた2-3歳当時も、朝から晩まで砂場に一人でうずくまって何かをしていたらしい。
三つ子の魂百まで、というけれど、どうもそういう反復や観察が今でも好きだ。
ただ、大人になる過程で、たとえば雨粒を見続けるのもこれくらいにしよう、とか、そんな分別をもれなく身に付けたせいで、今はきっと思う十分観察はできていない。
そんな余計な分別はできる限りはぎ取って、いつもきょろきょろわくわくしていられればいい。
「なんで?」と一日に数百回繰り返していた疑問をもう一度言えればいい。
もっと言うと、その「なんで?」と問う前の状態に戻れればいい。
何かを作る時に思うのはそんなこと。
雨を見ながら、雨の始まりを思い、雨の不思議を思い、雨を作る。

6.08.2009

イケメン象さん

「彼は興味の無い人には一切口を利かないよ。実際、見えてもいないみたい」
というある人の評価を聞いて笑ってしまった。
わかる!と思って。
私の場合、見えてはいるんだけども、焦点が合わない、という感じ。
会ったことのないその人に会ってみたくなった。
その人の話をしてくれた彼女は「顔は象さんみたいだよ」、とわけがわからない。
写真を見せてもらったところ、象っぽかったかどうかは別として、良い顔をしていた。
顔が全てだなぁとつくづく思う。
好きな人たちの顔はいつ見ても好きだし美人だしイケメンだ。
そして嫌いな人たちの顔はいつ見ても本当に不細工だ。 救いようがない。

シンプルであまり間違いの無いこの感覚、便利だなぁと思う。
見た目と感情が違う、という感覚すらもう忘れてしまったが、どんな感じだったんだっけ。
アンビバレントな感情だったんだったか、驚きだったのか
今はこれが普通になりすぎて景色と一体化してしまった。
得ることは失うことでもある端的な例。

6.07.2009

ビーチグラス

遠く離れた生まれた町の記憶はほとんど無いものの、そこで起きることには不思議とつながりを感じている。
瑣末な事情を疎ましがる態度をドライだと言われ、微妙な音に耳をすませていることや、実は感情そのものとして生きていることにはあまり気付かれない、私同様、思想的色弱なある女性に出会えたのもそこに出向いたから。
全く違う素材でありながら、どこか通じあうものを互いに作っていて、その「モノ」の相性も人間同様にしっくりきた。
不思議で当たり前なこんな出会いは、そこかしこ、とは言わないまでも、確かに存在している。
そちらに眼を向けて、ちゃんと見て、ちゃんと感じればすぐにわかる。
それは、だんだん良くなるものでも、だんだん悪くなるものでもなく、ただそれがそれであるという確かさでそこにあるので、悩んだり迷ったり、時間をかけて見極める必要すらなく、するべきことは海岸でビーチグラスを拾うがごとく、手を伸ばして拾うだけ。
波にさらされて表面が削られ、半透明な様子できらきら光る、あれを見つけたあの気持ち。
驚きと嬉しさと温かさと新しい視野。

6.06.2009

景色の切り取り線

ロスコのシーグラムを見に行った。
浮き上がる線、消え行く色、遠ざかり、遮られ、形を失いながら、脳裏でイメージが像を結ぶ。
絵画のなせる技にただただ感嘆する。
シーグラムに満たされたその部屋は、部屋全体が振動しているかのごとく、不思議な波動に満たされていて、できることといえば、巨大な画面にいつの間にか飲み込まれているのを単に自覚するのみ。
見れば見るほど見えてくるような、隠されていくような惑う感覚に揺さぶられ、知覚の皮が一枚むけるような、別の目を手に入れたような気にすらなり。
良いとか悪いとかいう評価を超えて、すでに一つの景色へと昇華した絵の存在感。
私が見たのは景色の切り取り線だったのか。

6.01.2009

氷山の一角の一角/tip of tip of the iceberg

久々にテグスを心底恨んだ。
あの、摩擦の少ない、やり直しのきかないアイツ。
けど美しいので使ってしまう。

実は、最近、arts&science mens shopのショウウインドウのディスプレイをさせてもらえる機会をいただいて、閉店後から翌日の開店前までの時間で展示するという作業をした。
モノを置く作業であればさほど時間のかかるスペースではなかったものの、そこに設置しようとしたのが「吊り」作品だったため、エンドレスな時間を費やす羽目になった。
そのあまりの困難さを3人のスーパー助っ人に助けられて乗り越え、なんとか設置できた暁には、飲めないビールも飲めるというもの。

その作品は「Tip of Tip of The Iceberg」という作品で、日本語でいうと「氷山の一角の一角」。
この同じタイトルで同じ作品をいくつか作っているほどこの言葉が好きで、この、少しだけ見えているものから全体を感じるイメージが、自分のものの見方にフィットする。
私にとってこれは、結局見えていない、という、見ることへの否定ではなく、見ていることと知るということの関係を受け入れるということで、新しい角度で「見る」ことと、「見る」ことそのものへの興味を呼び覚ます鍵のような存在。

眼鏡用の度の異なるレンズを繋いで大きな眼鏡を作り、それを「tip of the iceberg」という言葉の上半分(Tip)だけが見える水平線になぞらえたシートの前の空間に浮かせる作品。
どれだけ目を凝らしても、どの角度から見ても、どのレンズで矯正しても、見えるのは氷山の一角の一角だけ。
それは諦めではなく、新しい知覚。

5.30.2009

2秒

この世に偶然が無いとして、単に人間が理由を知らないだけだとしたら、近くにいて、言葉を交わして、テーブルを囲む相手の言葉はなおさら聞くべき。

で、目的地の遠くの光を見ただけで「もう着いた」と言ってしまう、という楽観主義の彼女とはどこで会ったんだっけ?
久しぶりに気が向いて電話をしたその日、彼女は予定が二つあったのが、私の電話の前に二つともなんだかんだで無くなり、家に帰ろうとしていた
その日の午後、私がどうしてるのか、と考えていた、とも。
私はといえば、パッと思いついて2秒で電話しただけ。

こういうことがもう「当たり前」といえるほどに多発していて不思議と思うのもやめたいのだが、なぜかまだやめられない。

5.27.2009

憧れのクラブ

無為な時間を過ごせないなら、人と会うのをためらってしまうことがある。
もし3時間しかない、とわかっているとしたら「会う時間がない」と捉える。
会った時、生産的なことを効率的に行うこと以外できないとしたら、なんだか逆に退屈してしまう。
なんとなく、の時間をなんとなく過ごすことが至上の贅沢だと思うし、その贅沢の中にしかないものが、私がほしいものの一つなんだと思う。

思い出すのは、訳あって私が心で「大使」と呼ぶある人のこと。
同じ公募展に出していたことから知り合って、3度目に会ったのはすでに私の家で朝の6時までしゃべり倒した、その彼女は「なんとなく」の大家であるように思えた。
彼女の若いころの遊びの話を聞くだけで、どんな出来合いの物語よりも、面白く、濃厚で、刺激的だった。
それは他愛もないおしゃべりだったり、何かを思いこむゲームだったりしただけだったのにも関わらず、「なんとなく」がどこまで滑って行くのかという明らかな思考実験なのだ。
私は普段ゲームにはあまり興味がないのだけれど、彼女のゲームや冗談は、彼女の体の中心にあるというか、彼女自身のありかたと関わっているというか、とにかく力強いせいか、惹きつけられてやまない。
彼女とその友達たちにしか通じない、謎の「歌舞伎クラブ」、入りたかったなあ。

5.25.2009

塩になる

自分という存在がどこから始まってどこまで至るのか、考えるとくらくらする。
体の中に納まっているという考えがまあ一般的だろうとは思うけど、どうしてもそう思えない。
経験や「肌」感覚にマッチしない。
では、体の中心から体を突き抜けて、たとえば球状に拡がっているんだろうか。
そういう風に思えなくもない。
ただ、それはあまりに人間中心の考え方のような気もして。
仮説として、何かの「存在」の中を人間が通り過ぎているだけとも言える。だからといって、人間に何も無いということではなく。
私という人間はここにいて、考えたり感情を持ったりしている。それがなんでもないとは思えず。
考えるゆえに我あり、というのとも微妙には違うものの。
いずれにせよ、(肉体があるからこそ存在すると思える、)感情の広がりを考えるとき、Aという人やBという人を見て感じ、判断しているというより、何かを彼らの中に見ている、という感覚のほうが近い。

以前こんなことを考えているときにぴったりだなと思えたアナロジーは塩だった。
いろんな人や情景の中に様々な濃度で溶け、堆積する塩をこそ見ているのではないか。
隣り合う細胞の塩濃度を同一にする浸透膜をそれぞれの存在が否応無く持たされた状態で。(塩の濃度が否応無く調整される)
濃度の違う人に会ったときの圧迫感・被圧迫感はこれかもしれないと思えるし、だから似たような濃度の人には穏やかな気持ちになれるのか、というのも納得できる。
その堆積するイメージと、塩が一つの鉱物である事実も、自分の体への揺らいだ意識と呼応して。
そしていずれは塩そのものになるんじゃないんだろうか??
死んだ後、骨になり、水分を失い、塩になる。
悪くない。

グレーに尽くす

色の話といえば、色の違いが見えすぎて、あたかも色の違いが見えていないかのように見える彼のことを思う。

黒からグレー、という狭いグラデーションの世界に暮らす彼は、実に細やかな密やかなグレーの差もそれぞれを愛す、その態度が、なんとも献身的でなんとも可笑しくて。
とはいえ私もそのグラデーションを含む紫からチャコールグレーまでのグラデーションをこよなく愛し、惑わされているので他人のことは言えないし笑えない。

ある人にとってはどの色も同じだし、別の人にとってはまったく違う。
結局私は、同じ色が見分けられることによって見えてくる何かが見たいんだろうなと思う。
土の味や硬さや密度の違いをミミズ同士語れたらそれでいいのかも。
空の話になんて興味ない。

5.23.2009

色覚異常

誰でも鋭い感性を持つ領域があるとして、それが他人や世の中と呼応するかがある種その人の社会的価値や位置を決めるんだろうと思える。

虫の声を聞き分けられる人は人の顔を覚えるのが苦手かもれないし、計算の早い人は食べ物の味の差がわからないかもしれない、ということに始まって。

その領域が自分とまったく重ならない人は、すべて重なっている人と同じくらい稀なのか、どうなのか、よくわからない。
虫の声のような全員が通る道に必ずしもあるわけでもない領域もあれば、食べ物やセックスなど、誰もが通過する道路沿いの能力の人もいる。

自分について考えたとき、私の領域はどこか中空にある。浮かんでいる。
たまには地に足着いた能力を発揮することもあるけれど(?)。
ともあれ、それは、色弱が普通より色認識能力が低いことを意味するのではなく、色覚が「単に違う」のに似ている。
(「普通」の目の人には見分けにくい色が見分けやすい、とか)
きっと私はメンタルな色弱なんだと思う。
多くの人にとって差が重要なものの違いが気にならないどころかよく見えてもいない。
一方で殆どの人には一色に見える色の何十ものバリエーションの差が気になって仕方が無い。

そう考えるとどうしてこんなに自分が他人や他人といることに飽きっぽいのかが納得できる。
言葉や行為やいろいろ。
単に見えていないから理解も共感もできず、空を飛ぶ素晴らしさを語る鳥の話を上の空で聞くみみずのような気持ちになってしまう。
(「土、おいしいな♪」とか。)

5.22.2009

ソリトン

多くの小さなピースからなる長い、または、大きなピースを作ってみたいとずっと思っている。
繰り返しのリズムによる、全体のリズム、出来上がるまではXX個だったパーツが出来上がると一個になって姿を消す様子にどこか心ひかれるのだ。

それはどこか部屋に似ている。
一つ一つ買い集めたもの、作ったもの、使い慣れたもの、見慣れたものが、渾然となって一つの部屋という全体、一個、になる。
部屋の場合は個別のパーツの見た目は(ソファーとネックレスのように)全く違うことも多いが、それに対する感情は似通ったリズムを持っている。
そしてそのリズムがうねりとなって何かが立ち現われる。

ここで難しいのは、現れて・顕れてくるリズムはどこまで意識できるのかということ。
XXにしたい・しようと思うことによって、「なっていく」ことの許容が阻害されることは言うに及ばず(XXっぽくしたい、と思って作られた部屋には「XXっぽくしようと思って作った」匂いしかしないものだ)、意思と意識はどこまでも交じわらない。

何かを成し遂げるには意思は大事かもしれないけれど、私にはどうもそのへんがよくわからないし、うまく意思が持てない。
意思が、限定的で非包括的な認識のありよう、またはその表れだと思ってしまうからかもしれない。
結局、観察と解釈しか自分にはできないのかも、とも思う。
結局、「水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎない」というユングに共鳴したりもして。

いまだ色々と身体にとらわれ、ジタバタもしつつ、共時的に偏在することを私はきっと志向している(意識の意識として?)。
その過程でどんどん頭が悪くなるのも是としながら。
で、どっちに行ったらいいんだっけ?(ほんと単なる馬鹿)

5.20.2009

エクササイズ

友人に教えてもらったクリエイティブエクササイズ。これがはまる。

用意するもの:
・適当な大きさの原画。絵(のコピーなど)が望ましい。
・雑誌(写真がたくさん載っているものが望ましい。)
・のり、はさみ、クレヨンなど自由に

作業:
・雑誌から好きなように”テクスチャーやパターンとして”(絵柄としてではなく)写真を切り取る。文字は不可。
・それを原画に貼る。
・必要であればクレヨンなどで着色してもよい。
・必要なところだけ作業し、いいと思えたら終わり。

考え方:
・誰かの家に自分の私物を持ち込むかのように、もともとあったものやイメージと戯れる。(他人の家を自分の家にする試みではない)
・自分一人ができることというより、リズムやインタラクションを感じる。


途中で交換したり、さかさまにしてみたり、いろいろなルールで遊べる。
終わったら見せ合って感想を言い合う、それだけだけども、頭の凝り固まったところが刺激される。
特に、私は普段制作するときに、何をどうやって「引くか」を考えることが多く、コラージュのように何をどのように「足すか」ということを考える習慣がない。
どちらかというとそういう作業を避けているといってもいい。
それに、ミニマムなものを作りたいがために、それとの対比という意味もあり、ある程度の「支配力」のような力を持たせたいとすら思って作ることが多い。
だからこそ、物や状況との複雑なインタラクションに弱い面があって、それをこのエクササイズが補強するような気さえする。
これを例の「無人島」でやっていたわけだけど、一緒にいた二人の才気溢れる自由人たちが紙を裂き、色を付けていくたびに、さざ波のような刺激があって、頭の芯が熱くなり、感覚が鋭くなっていくのを感じた。
たまに交わす、何気ない会話も、洞窟の奥から聞こえるような神秘的な響きを持ち、完全に脳内が活性していく不思議。
興味のある方は是非。



5.19.2009

北極

方位は不思議だ。相対的でありながら、時として絶対的でもある。

ある地点から見ればある地点は確実に北にあったとしても、別の地点から見たらそれは南東かも、東かもしれない。
それは「指し示す」という方位の本質として理解できるとして、人間と地球のサイズの違いからなのか、動きの不自由さからなのか、日常には絶対的な方位のほうが肌になじむということに気づくとき、どこか足元が揺らぐような感覚になる。
南国、東新宿、北九州、西欧など、方位を関した地名や地域名は”洋の「東西」を問わず”、世界中に分布している。

回転体である地球に絶対的な東西は無いとして、絶対的な南北はあると信じられている。
まぁ実際にあるといえる。
北極星の方向、地軸のてっぺん、が絶対的な「北」で「真北」と呼ばれる。
問題は、北が真北だけでは済まされないところ。
方位磁針を世界中の人が持って北に向かって行ったとしたらたどり着く、「磁北」という北極もあるためだ。
この二点間の距離は「こことあそこ」と言えるような距離ではなく、数百キロ単位で果てしなく離れている。
これは、地球が巨大な磁石であること、地球が自転していることによって起こる。

この事実は、事実だということによって同時に謎めいている。
それはまるで、三角形の内角の和が、地球のような大きな球状物体に当てはめると180度を超えてしまうのに似ていて、厳然と私たちを惑わすのだ(!)。
(赤道と緯度線と地軸はそれぞれ90度で互いに接している巨大な三角形だが、足すと270度になる。)

この、「絶対」なんだか「相対」なんだか、お互いをキャンセルしあうような関係性になぜか惹かれる。
意味があるのか、意味がないのか、意味とはなんなのか。
必ず死んでいくのに次々生まれてくる命の不思議さにも似て、正反対の形容詞によってのみ正確に描写される事象。
現在、そんなテーマの展覧会、「地図の地図展(仮称)」を2009年9月5日から約3週間、西荻窪のギャラリーみずのそらにて企画中。

はてこの捕まえた魚をどう料理しようか。

5.18.2009

無人島の家

そこは透き通っていたい、と思うところが濁るとき、それをさっと洗い流してくれるような人が現れる。
本人には全然そんな意識は無く、鼻歌を歌いながら水を汲み、肉を煮る。
チョコレートを食べ、葉巻のにおいを嗅ぎ、アクリルで歪んだ顔を笑いあう。
日本語で喋り、英語で喋り、時間は過ぎ。
そんな彼の家から帰ってきてみれば、それは意外に近かったけれど、まるでどこかの無人島にでもいたかのような浮遊感と心地よい疲労感。

あのとき電車の中で偶然再会しない、という選択肢も人生にはあったはずと思うと、いかにそれぞれの糸が複雑に意味深に絡まっているのかと思わずにはいられない。


5.17.2009

ティラミス

「待つ」ということを欲するときがある。
ただなんとなくややこしいのが、来るべきことや行動そのものが欲しいわけではないということ。
とはいえ対象が無ければ待つことも出来ないわけで、それを「手に入れる」ことが欲しくないということでもない。
それはあくまでも副次的な欲求なので、レストランで食べたい料理を注文するようなわけにもいかず。
言うならばデザートを食べるためだけに食べたくも無いコースを食べたいといったところ。
そしてコースを飛ばしたり、どのデザートが欲しいかを聞かれると食べたくなくなってしまうへそ曲がり。
ティラミスが欲しいだけなんだけどな、なんて思えたらなんて楽なんだろう。

5.15.2009

組成

昔読んだ漫画で、いまだに思い出しては笑ってしまうものがある。
ストーリーではなく、

「新しいひらがなを発明したよ。ほら、*(その文字)」
「どうやって読むの?」
「*(その文字)」

というだけのやりとりで、ばかばかしくもハッとさせられる。普段、文字が書かれている紙やスクリーンを眺めてはそれを無意識に音声化しているけど、その自動化された作業に何かが挟まれたような感じ。
メスを入れる、というほどではないけども、ティッシュを挟む、くらいの。

漢字を扱う日本人として、読めない文字自体には慣れていながらも(これがアルファベット言語の人にはなかなか理解しづらい:自分の言語に読めない文字がある?!と)、頭に音が鳴らないひらがななんて!とニヤッとしてしまう。
こうやって思考が分断されて初めて思考の流れが見える、というのは不思議で、面白くて、根が深い話。

考えてみると、「違和感」も思考の分断の一つだ。
当たり前に通用しているロジックの展開自体に疑問を持って初めて違和感を感じ、ロジックの存在を知る。
それ以外に本当に知る方法はないのか、と空恐ろしくなるが、子供のころに誰しもがある、自分だけが信じていたことが全く事実無根だったという経験を考えるだに、本当の意味ではそれでしかないような気もする。(ちなみに私は「右利きの人は右目が良く、左目が良くない」と9歳まで信じていた)
実際、極端な話、良くも悪くも違和感を感じないで過ぎる一日はあまりに少なく、良くも悪くも一つ一つ、新しいロジックを知り、少しずつ自分の組成を知る。

5.14.2009

すとん

手紙といえば、出さない手紙もよく書いた。

正確には、「結果的に」出さないことにする手紙。
よくそうやって自分の陥っている状況に目鼻を付け、解決の糸口を見つけた。
(そして往々にして目鼻を付けることが解決だったりもする)

日記を書こうとしても三日と続かなかったのは、それを読むのが自分しかいないということで、大いなる、大胆なる、衝撃的なまでの省略と論理の飛躍を無意識に許していたからで、過去の自分に一切感情移入できない私としては、あとで読み返しても全く意味がわからない。
(それもどうかとも思うけども、本当に自分が何を書いていたのかがさっぱり見当がつかいない。何しろ、一番「書くべき」事件なり状況をこそ書いていないのだ。)
他方で手紙というものは宛先があり、方向があり、状況を知らない他者がいる。
そこで初めて、「あのね、まずこれがあってね、次にこうなってね、そしたらね・・・」という説明責任(!)が生じて、責任感を持って文章を書き始める。
そしてまたそこで初めて、自分で状況が理解できる、という展開で、基本的に「わからない」ということで苦しむことが多い私としては「わかる」ことですとんと納得し、もう手紙そのものが不要になるといった塩梅。
そういう経緯で書かれて出されなかった手紙は10通、20通を軽く超える。
それにしても不思議なのは、出す気がもともとない手紙では上のような「すとん」が起きないということ。
結局どこか独りよがりなのか・・・。

今、私にとっての手紙はこのブログで、まぁ不特定多数に「宛てて」いるので、基本的には具体的なことはすべてぼかしているけども、なかなかの「すとん」ぶり。
「書く」ということが私に及ぼす力には改めて驚くばかり。

5.12.2009

困惑、寛容、在り様

学生時代、よく手紙を書いていた。
今では信じられないけれど、eメールというものが世間を席巻する前の時代。

私が通っていた大学にはいち早くインターネットが導入されており、メールは毎日使っていたものの、とにかくひたすら文字を書いた。
自分がもがいて拾ってきた心の井戸の中にあった言語を理解する人に出会い、余計に夢中になって拾い、攫い、濾した。
驚くべきことに、言葉は取れば取るほど取れた。
その人とは、同じ授業で毎週会っていたのにも関わらず、毎週10枚以上もの便箋に書きなぐった手紙をひたすら送りあった。
もちろん会えば話す。足りなくて書く。の繰り返し。
溢れて溢れて止まらなかった。
ただ、おかげで他の人には要らぬ迷惑もかけたし、フラストレーションややり場の無い怒りに突き動かされて他人を攻撃もした(!)。
なぜ、彼ひとりしか私の言うことがわからないのか、わからなかったし、困惑していたのだ。

あれから15年以上がたち、今は、大人になるってこういうことか、というような、寛容と、納得と、諦観がある。
彼以外にも伝わる人がいるということ、そして「伝わる」というのが、同じ価値観を持つことを必ずしも意味しないことが分かり、「自由」という概念を含んだあらゆる概念から徐々に解き放たれてきた。
すべて言葉によって。
正確に言うと、言葉という道具を使って探ろうとする振る舞いによって。
「結局は言葉じゃないよね」という言語能力の低さを正当化するゴタクとは形式だけであっても正直向き合いたくないが、結局はもちろん言葉ではない。
言葉は言葉という「在り様」であり、言葉という「視線」だ。
言葉は視るためにあり、在るためにある。
せっかくだから視て、在ろうと思う。

5.11.2009

風を待つ

せっかくの満月なのに雲が光を覆う。そんな残念な気持ち。
満月は私のもの、そして雲も私。
風が雲を吹き飛ばすのを、私を吹き飛ばすのを待つ。

・・・と言っているうちにあっという間に自分で風を起こして雲が吹き飛び、残るは満月ばかり。
ひとり遊びなのかなんなのか、跳ね返る音を聞いてそれが何かがわかる。
そして、なーんだ、と、急に力が抜ける。
「わかる」が「わかった」と過去形になった瞬間のコトンと落ちるような静けさで、なんだか急に眠くなる。

5.10.2009

怠惰なカメラマン

片目が生まれつきあまり見えず、矯正もできない。

子供のころに精密検査を受けたとき、目の機能自体に問題が無かったことから「カメラには問題がないけれど、カメラマンがカメラをうまく使えていない」と言われた(らしい)。
目がカメラでカメラマンとは脳の視覚野のこと。
ピントを合わせることに興味を失ったカメラマンが私の脳にはいる、ずっとそう思ってきた。

幸い、残りの片目の視力が平均以上に良かったので、日常生活で困ることは無く、見えない目のこともなんとなく忘れていた。
左右の視力差のせいで起こる距離感の視覚と知覚のズレは、子供のころに原因と解決策を見つけていたので、もう起きることもなく、どちらかといえば目が良いということで得られる恩恵を受けていた。

最近、なぜか目の話をすることが多く、「それ、何か他のものを見るための目なんじゃない?」と言われて、腑に落ちなくもない気がした。
実感から言うと、「見なくてもいいものが見えない」に近いけれど。
そう考えると実は、見えていない方の目の恩恵も受けていたのかも知れない。
ある部分では人は努力しても無駄ということも体で知っていたし。
まぁ、以前は見えすぎた片目が邪魔したことも多かったけれど、年とともに視力が低下してきて、なんだかますます「見えて」きたような・・・。

見るって一体何なんだろう。

5.08.2009

木と鳥と森

最近知り合い、親しくなった人と10年以上も前に同じ場所で同じことをしていたことが昨日分かった。
目に見えない糸が急に見えたような、驚きと喜びがあった。

他人と同じ道を辿ることはできないが、触れ合い、すれ違い、少しなら一緒に歩くことすらできる。
そのとき目が合うかどうかは別として。
ずっと隣にいても背中を向け合っている場合もあるし、互いに常にふらふらしてるのに、相手のほうを見ると必ずこちらを見ている、という人もいる。
交差するXの字のように一点でしか触れ合わず、その後はただ離れていくだけの人やYの字のような関係もある。
消失点で交わる二本の線路のように、実際には交わっていなくても、ある視点からならそう見える関係もある。

もちろん一点の結びつきにも理由や意味があると思えるけれども、それはおそらくその人の存在に理由があるのではなく、その人との関係そのものに意味がある。
お互いが宅配便の配達人になったかのような、届け、受け取り、立ち去る、そんな「役目」を負っている。

二点が交わることは稀だ。
二点が交わるとき、関係だけではなく、その人を知ることに何か大事な理由がある。
一点と二点、どちらが重要かが問題なのではなく、それはただ違う。
いずれにせよ、出会う人がどちらなのかはなんとなく分かる―「目が合う」感じで。
普段はこちらを見ないのにこちらを「ふと」見た感じや、常にその方向を意識していながら「ふと」見た感じで。

この交差したりしなかったりする様子、自分と他者で考えると、どれだけ左右にぶれようが、ジグザグ歩行をしていようが、それは対社会的な揺れであって、常に自分は「まっすぐ」なので、超主観的に考えると、木と、木にに止まりに来る鳥の関係のようなものに見える。
巣を作るものもいれば、木の寿命を上回るサイクルで戻ってくる渡り鳥もいる。
もちろんその中間もそれ以外も。
前述の「ふと」は鳥の声とも言える。
この、聞き分け、見分けながらも互いに彷徨う感じ。意思の森はどこまで深いのか。

5.06.2009

赤い膝

不可解なタイミングで涙が出ることがある。

泣きながら「え?何で?何で?」と実際に言うことすらあって、つい数日前も泣きながらアタフタしてしまった。
理由がわからずに。・・・というより理由に納得できずに。
この突き動かされる感じ、色々呼び方はあるんだろうけども、私は「本当の自分は知っている(けど、”私”は気づいていない)」モーメントと呼んでいる。
上のケースで言うと、納得できない”今の私”は本来納得「すべき」じゃないことに納得している、ということを、別のもっとよくものを知る「私」が涙を通して訴えてきた、というところか。
そもそもが不当な納得を裏返されて、(今の)私は逆に「納得できない」と感じる、というサイクルかな、と推理。
いずれにせよ、私はその頭がいい方(?)の私を信頼していて、頭が悪い方(として生きるしかないという事実は置いておいて・・・)に従わせている。
具体的には現在の自分の判断を信じない、ということで、だからこそ精一杯(馬鹿なりに)判断するし、勝手な出し惜しみなどせずに(どうせ馬鹿なんだから)、体当たりする、という方針。
で、たまに上のようなモーメントが訪れると、静かに自分の馬鹿具合を受け入れ、「あーホントはそうだったのか」と膝を打つ。

・・・この膝の赤さよ。

le scaphondre et le papillon

常に、打ちのめされるのは当たり前のことによって。

「失うということは、元に戻ること」というメッセージをある映画から得た。
筋力や知力など、年を追うごとに次々何かを失っていく人間は無=死に向かっていて、それは慰めでも祈りでもなんでもなく、「元に戻っていく」んだなぁと淡々と感じ、心が揺さぶられた。
挿入されていた、物語とは直接関係のない二つのシーンによって、実はその映画の最も根幹を成すエッセンスが語られていた(ナレーションも音さえなかったけども)。

不可思議で不条理で不平等な命。
それを前にしたときの、あっけに取られるほどの荘厳さと馬鹿馬鹿しさはきちんと同居して、見るものを揺さぶる。

ミナモ

相手との形勢を常に意識した話し方、もしくは、ただただ相手の方向に猛進してくる(いわゆる、土足で踏み込むともまたちょっと違う、)話し方が苦手なのは、それが既にどこにも行かないディスコミュニケーションだからだ。

前者の過剰な他者への意識は、関係にフォーカスが当たりすぎていて、逆に関係が存在しないし、後者の「待たない」、「気づかない」、「見ていない」ディスコースは全てが一方通行のバッティングセンターだ。
とはいえ、手順を踏むわけでも、関係を意識するわけでもなく、ただ普通に期待と時には不安やリスクと向き合いながらラリーをするだけのことが、なかなか難しい。
大胆であり繊細であり、相手によって変わりながらも常に一定でもあるこの「様子」は、川に流れる水ではなく、水面そのものであって、それはゆるぎなく緩やかな境目。
私はそれと、紡ぎながらか剥がしながらか、常に戯れている。

5.05.2009

晴れ渡った霧の中

一緒にいると常に心洗われるような、peacefulな気持ちになれる人が、実はどこか他の場所では怖がられていたり、怒号を響かせていたりする、ということがよくある。

いつも、独特の透き通る感性とどこにも拠らないふわりとした自由な有り様で、その場の空気を静かに興奮させる、そんな尊敬すべき人と会うたび、解き放たれつつ刺激をもらう、恍惚とも言える状態になる。
そこには否定的な感情や感覚をも否定しない許容があって、行き止まりの道が無い。
どこにでも行けて、道はすべての道と通じている。
なかなか当たり前ではあるけども、果たして難しいことでもある。

文句も言い、批判もし、冗談も言い、感情的になり、理性の言語で語り、愛を知る。
そのどれもが「=」で、「≠」で結ばれて繋がって、途絶えている。
なんて素晴らしくてどうでもいいんだろう。

5.02.2009

大陸の子音

春はいつから始まる?豆の音。此処。引越し。左側通行?右側通行?
たわいも無い会話から漏れ伝わるのは、発音されない子音のような、確かで静かな気持ち。

5.01.2009

破壊の塔

言語の壁。そんなもの日本人とだってある。もっと言うとほとんどの人とある。
それが無い人を探して一緒にいるのに、表面上のコミュニケーション「言語」が自分の「母国語」と違うからといって壁があるというのはフェアじゃない。
同じ「言語」を話すフランス人も韓国人もいるし、アメリカ人もいる。
その「言語」の意識や感覚が無い人にとっては言語は日本語や英語やフランス語のような社会的言語を指すのだろうけど。
(英語圏からの)留学から戻った友人がまず語った「言語」についての話が英語ではなく、「言語」だったのが心地よく、それこそ彼と私が同じ「言語」で会話していることを明らかに感じさせた。
バベルの塔はある。見えないだけだ。

500年後の平等

必要なものはみんな違うのに、同じものを与えたり得たりすることが平等だと思っていて平等が善だと固執する人たちがいる。
もらったからあげる、返す、という固定化した思考。
しかも社会的に同じ程度のものを、という余計な分別。
あ、あの人に似合うな、と思って買ってきただけのお土産に1週間後には当たり障りのないお菓子が返ってきたり、独り言めいたメールにもすべて返信。
義理や「悪い」という感覚が悪いというわけではない、ということなど全く思わない。つまり悪い。
当たり障りのない関係を維持するためには必要かもしれないが、ぶつかるかもしれない、というリスクを根本に含む、「先へ」行ける関係のためには障害でしかない。

人間関係は過去の恩義で成り立っているのではなく、今この瞬間、たがいに自分自身をさらに理解・許容することを可能にしてくれる相手を求め会う気持ちで成り立っているし、そうでなければ「維持するために維持する」魔のスパイラルで自分が消費されるだけ。
自分を理解してくれる人がいることに安心するために人といるわけではなくて、とはいえ、だからこそ結果的にはそこに充足感もあるけども、自分が自分を理解したい。
そんなエゴイスティックな考えでいたとしても、それがエゴであることを知っている限り、相手にそれを押しつけることはないだろうし、瑣末な「義理」や「遠慮」などという感覚は視界を曇らせることが最初からわかっているからこそさっさとトイレに流し済み。
それをもってしても、自分が思ったことを思ったように言うということがある種、自由の権化のように神聖化されていて、そうするだけで逆にエゴイスティックに見える場合もあるようだけれど・・・。

このあたりの考え方は基本が違うとどうどうめぐりなんだけども、ざっくり言うと、タイムスパンの問題でもある。
平等も義理も、それを交換するという概念を受け入れたとして、1週間とか10年とかいう単位で返そうとするから問題かもしれない。
だから最近、「50年以内に返して」、と言うようにしている。
150年でもいい。500年でもいい。
この感じが実は輪廻転生のカルマの考え方と似てるのが面白いが、もうなんでもいい。
返さなくていいし、忘れていい。
欲にのみ生きたときこそ、無欲になるのこの感じ、ホント楽。

4.27.2009

シナプス実験

思いつきはひらめきと同じで、実はそのとき思ったのではなくて、今まで思っていたことの瞬間的発露だ。
だから人の思いつきを見るのも楽しいし、自分の思い付きを実行するのも楽しい。
その「こと」自体を熟考していたのではないけども、それを「醸成」していた、ということに気づく瞬間。
そんなとき、シナプスが繋がった!と勝手に思うし、繋がった!と思うと繋がる、とも思っている。
イメージの力で行けるところまで行く、という実験中。

ある国に今年でかけようと思い、その国出身の友人のことをぼんやり思い出していたら、次の日その人から電話がかかってきた。
1年ぶりに。
驚きつつも、テレパシーかなんか送ってるな、私、と密かに納得。

友人の国籍が様々だということでインターナショナルだと言われたりすることについて、確かにナショナル(国籍)はインター(超える)だなど思うけれども、自分がかなり狭い世界で生きていることを思うと、だからこそ日本じゃ足りない、というだけにすぎないのに、国をまたいだだけで何かが広いと思われるのが、妙な感じだ。どっちかというとかなり狭い方なのに。
日本人とも付き合えて、外国人とも付き合える、というような見られ方があるからだろうか。
実情は、日本人ともあんまり付き合えないし、外国人ともあんまり付き合えないんだけどな、というところなんだけど。
まあいい。押しつけてこない限り人は何を思うのも自由。

とはいえ。
私は過剰なまでの「素敵な」レッテルを貼られることが多くて、それに実に辟易する。
結局、「のび太のくせに!」と言い放ったスネ夫の思考回路と同じで、思考停止で、そこからの交通が全くないから。
物事やヒトについて分類したくなるのは、統合し理解を促進することで無駄なくエコノミカルに生きようとする人の性でもあるとしても、分類不可であるということを自分に許せるか、というのは間違いなく純粋思考へのチャレンジだ。
分類不可について、多くが「どこかの分類に無理やり放り込む」や「その他として排他(称賛や蔑みによって)」であるのに対し、分類体系自体を都度根本から見直したり、究極的には「分類しない」という道が存在する。
私としては「分類しない」に近づきつつ、そのカオスの持つ破壊力を内包できるほどの力が自分に溜まるのを待っている、感じ。

昨日出会った人に「”その時”が来たらまたお会いしましょう」と言われたのが妙に今の自分にぴったりで、もしや、だからこそ上のようなことを考えたのかもしれないけれど、常に人には必要な言葉を聞きとる耳が与えられているのだとも思え、耳に感謝。

4.25.2009

2.5次元

2次元でモノを考える人と3次元でモノを考える人がいたとしたら、その中間にいるような。

今日は、同じ楽器の音をただひたすら聞いた。
その中間の人の音を聞きにいったのだ。
同じ楽器というのも面白いもので、ただ壊れた音や、自分のルールを押し付けるような頑固な音や、技量を誇る自意識の音や色々な音が非常に聞き分けやすかった。
2.5次元のその人の演奏は、美しく、謙虚で、独特の空間を持っていて、音をなにかの面の上に置きながら、その面を立体的に構成していく様子が、彼の本業である、映像のコラージュを彷彿とさせた。
音の持つ温度や厚みが、まっすぐで、芯の強い、地に足の着いた本人とすべて重なった。

雨のせいか、一粒の雨粒が水面に落ちて水紋が拡がる様子と音のイメージが重なって、メロディーからフォーカスをずらすと、音が雨そのものにすら思えてきた。
ホールに降り注ぐ雨は温かかったと、外の冷たい雨に濡れて初めて思う。

4.24.2009

数学 1

光が何かの隙間から降り注ぎ、それが水に反射するような音。
誰かが作ったものだけども、作った音には聞こえない。
音の速さとは反対に、スローモーションな感覚が引き起こされて、始まりや終わりについての意識が飛ぶ。

歌をあまり聞かない理由の一つには、この始まりと終わりについて否応なく意識させられてしまうことへの違和感がある。
構築されたストーリーを聞くより、繋がれた音を切り取る作業の方がしたいからかも。
意識するということについては言葉は強いが、意識そのものは言葉ではないので、その違いについて無自覚な言葉を聞くのも苦痛でもあり。
無自覚の海をさまよって数匹の魚を探す気にもなかなかなれない。

結局のところ「音楽」が好きなのではないんだろうと思う。
きっと。音を使って意識の階段を上りたい/下りたい、または単純に行ったことのないところに行きたいだけ。
そう考えると好きなもの、ジャンル、なんていうのも根本的には存在しない。
好きなものが好きなのであって、そのジャンルだから好きなのではない。
たとえば「日本人が好き」なんて絶対言えないけど、「好きな人が日本人」は言える。

こういうことを考えているといつも浮かぶのが(数学の)集合概念で、どちらがどちらを排他するのか、包含するのか、ということ。
どちらが優位概念か、とか、自分の潜在変数は何か、とか、自分がそんなことを常に考えていたことを最近知った。
これが数学的だなんて言わないけども、少なくとも私が(まったく数学自体はできないのに)数学に惹かれる大きな理由の一つではある。
数学的概念自体が私には、意識の井戸を降りる縄梯子なんだろうな。

数学についてはまた書きたい。

4.22.2009

token

私を「掴みどころが無い」と形容したその人といるのが好きで、「掴もうと」しない態度も好きで、「掴めない」ものだと知っている知性が好きだ。
人は普通だし変わってるし、賢いし馬鹿で、とはいえそのどれもが単なる解釈と評価でしかない、つまり、実体ではない。
「今は」+「そう見える/思う」を交換しながら像をぼんやり見るくらいが関の山と思えるその人の知性には、許容と受容があって、それこそそれは単なる私のその人に対する解釈でしかないので、本人は同意してくれないのかもしれないけど、遠くを見る目と地に生えた力があって真正面からモノを見据えることを可能にする。

おかしな響きだけれども、私をちゃんと馬鹿にしてくれる人は本当に貴重で、私ではなく、行動や行為を純粋に見てくれることで、結果としてああちゃんと私を見てくれているんだな、と感じる。
XXであるこの人がすることはすべてXXである、という分かりやすさは便利ではあっても、一種の断絶でもあり、そこから何も生みはしない。
この種の分かりやすさは保留された理解であって、理解とは根本的に違うということに気づくほうが実は面倒だし、もどかしさや時として痛みも伴うものでもあるけども、これこそが地平に向かうための重要なトークンの一つ。

4.20.2009

時空

バランスをとることはその定義からして危うく、常なる努力を要する、という文章を読んで、そしてその本人のバランスの取れたありさまと知性を思う。
好奇心が強い反面、慎重な一面もあり、あるがままを受け入れながら、綿密な準備も怠らない。
素直で懐疑的、常に楽しもうとしながら、建設的な批判は惜しまず。
大人で子供なその人に私はただただ引き寄せられるばかりで、考える余地も無い。

誰かに初めて会った瞬間に懐かしく思うようなことがデフォルトになりつつあるとしても、特別なものは特別で、明らかに日常の風景からは際立っている。
なぜか3年前、一気になだれ込むようにそんな経験を繰り返し、そこから現在に至るまで絶えずに続いている。
何がはじめなんだろう、何がきっかけなんだろう、とよく思う。
考えれば考えるほど曖昧で、中学生のときのあの違和感かな?と、思いは既に時空といえるほど遠くへ遡る!
小さな違和感から小さな行動へ。
小さな行動から小さな決断へ。
小さな決断から小さな選択へ。
きっとそういうことなんだろうな。

UFO

混乱は速やかに去り、あっけないほどの空虚感。
豪風と思った風が、本当の豪風によって微風と知らされたような、舞い戻ったUFOにとにかく感謝。
私を受け入れもしなければ、寄ってもこないのに、そばにいて受け入れるのは、進むべき道に私がいるだけという単純な事実が何よりも爽やかで、意図されないからこそ身勝手に解釈された温かさが妙に染み入る。
つまり、思考能力を奪われるほどの存在感に圧倒された結果、思考が冴え渡ってしまった、というわけで、話は振り出しだけども、こんなものを相手にしているんじゃなぁ、という諦めが救いだったりもして。
赤信号を渡るのが健康のためだなんて、話が遠いと思われるのがオチだが、母性のような植物のような、見えている光に従うのみ。
嗚呼。

新緑の中

どこかに行くという感覚そのものと、どこかを見るという覚醒の瞬間のどちらを選ぶか、ということか、という話になった。
選ぶメディアはなんでもいい。
開閉するドアすらない椰子の木の下で、個ではない表現が可能になるなら、結局それがすべてだ、という気すらして。

たかだか1年弱会わないだけ、と思ってはいたが、やっぱりその人の言葉を通して見える景色は代えがたく、命に近く、透き通っていて、それをどれだけ求めていたかを思い知らされる。

どこかお互い欠けた感覚でさ迷いながら、生まれる音を待つ。

4.18.2009

球体

一言で言い表せる関係でも、物理的に密な関係でもない。
それでもこの「分かる」という感覚。
いつも「見つける」側の私がそのときだけは「見つけられた」のは誰に感謝したらいいのか。
裏や表すらない球体の感情。
心に深く根ざす、繕ったり、努力することもできない、例えていうなら、自分が生まれた場所のような場所が、ほんの少しでも重なるとき、時間は消える。
感情も感情ですらないかもしれない。
場所も場所ではなく、しまいに視覚も不要では、という感覚に・・・。

磁石

その人はいつも一瞬を見ていて、それを掴もうとし、そして焼き付ける。
その一瞬が一瞬では存在しえないことを体感しているからこそ過去や時間に縛られない。
求めるものが分かっているからこそ、それが探しに行かずとも得られることを知っている。
自分の弱さも認め、受け入れ、 目の前に拡がるすべての可能性にワクワクしながら冗談を言う。

最初は一人の人について書いていたのに、なんだか私の周りの人たちの多くについてになってしまった。

人は磁石だ。
何かを引き付ける。似たものや異なるものを。

4.16.2009

コイン

コインの表と裏ということは分かっていても、混乱してしまう。
いや、正直、どちらが裏なのか、というより、何に混乱しているのかも良くわからない。
自分に失望したのかもしれないし、希望を取り戻したような気もするし、結局仕方ないとも思える。
頑なにならず、受け入れ、積極的に自然体で流される、という行為の中には
何かを守らないことや、避けがたく他人を傷つけることや、それによる失望がある。
ただ結局はそれさえも受け入れるということでしかない。
外国語の文法のように、「そういうものだから」と思わないとやりすごせない。

それにしても常に軽々しくも本気なので、ある意味背水の陣でもあって、下がることはできず。
立っているだけで、何かを押しつけているように思われたり、攻撃しているように見られることには慣れていても、そんな状況に直面したときのそのどうにもできないやるせなさにはあまり慣れられない。
なにしろ私は本当にただ立っているだけだから。

分裂と重層のパラレルでメタな自分をいったりきたり。

4.13.2009

悲しき頭の悪さ

目が合うのはいい。
目が合わない会話は、なんだかもうちょっとだ。
物理的にも精神的にも。

受け入れるべきことと受け入れなければならないことの差が正直曖昧で、一体何なんだ、と自分に怒鳴りたくなることもしばしば。
計画することで失うことを尊重しすぎて計画が出来なくなっている自分に呆れつつ、「あそこ」へ行くにはどうしたら、と重い腰を上げてみようかと思うこのごろ。
で、何からしたらいいんだっけ?という頭の悪い問い。
つける薬がほしい・・・。

4.10.2009

鏡文字

顔しか見ていないような気がする。
うなづき方や、質問のしかた、笑い方、歩き方、を全部含めた顔。
うまくいえないけれど、人間の全てから肉体的特徴を引いたときに残るもの。
物理的な顔ではないんだけど、でもそれがやっぱり物理的な顔を窓として見えてくる。

顔には目があるからかもしれない。
目から光を出してるのか、なんなのか、分からないが、謙虚でありながら恐れない目はそれだけで宝石のように、そうでないものの中からくっきり浮き立っている。
それが見えてから、(正確には、見てきたものがそれだと気づいてから)色々なことが分かりやすくなった。
一瞬で見つけることも、見つけてもらうこともできるようになった。

「顔に書いてある」という表現があるけれど、ほんとに殆ど書いてある。
何を見ているのかについてはまだ一番得意な日本語にさえうまく翻訳できない。
たぶんそれは自分の顔にも書いてあって、毎日鏡で見ているのに。
鏡文字は読むのに時間がかかる。
いやはや。

4.06.2009

トポロジー

よく話が飛ぶと人に言われる、というその人は実は同じ話をずっとしている。
前も書いたが、話というのは結局のところ一つであって、楽しい、悲しい、浅い、深い、色んな形容詞がつけられる一方で全てが繋がっている。
その繋がっているという意識を持って話していない人の感覚はなんというか分断されている。
話は似たような要素を持ったものにシフトしなければならなかったり、同じ深度を持っていなければならなかったり。
よく言う「空気を読む」という言葉もこのシフトのスピードや深度の認識についていわれるように思う。
要するに枝葉末節だ。
同じ枝について話していても、吸い上げられた養分について考えながら話すのと、そうではないのでは相当の隔たりがあって、隣の枝について話しただけで、話題が変わったことについてガタガタいわれるのだ。

話すとき、目には見えない何かをイメージしながら、それを伝えようとする。
たとえばそれがマグカップの形をしていて、自分からはハンドルが右にあるように見えていたとしても、それが相手からもそう見えるかは甚だ疑わしい。
場合によっては真上から見ていたりするわけで。
お互い話を聞くことでそれがマグカップであり、それがどちらを向いているのかも(=自分がどちらからそれを眺めているのか)分かってくる。
まったくもってコーヒーカップとドーナツが同じ形とするトポロジーと同じ作業、と思える。
そして会話はここからだ。
単に会話と言ってもなかなか奥が深いもんです。

4.05.2009

枯山水

音を聞きに行った。
物音と音楽の中間くらいの「音楽」を。
一日中動き回って疲労していたせいか、どうも集中できず、やや幽体離脱気味な思考状態になり、それを聞きながらも、「なぜこういう音が好きなのか」ということについて考えた。
朦朧とした脳で考えたところの結論は:見出すことで意識される/意識することで見出される日常や自然の音の存在を美しさを損なわずに伝えるから。
たとえば電車に乗っているときの電車のリズムや人が歩くときのステップや衣擦れの音-そんな音が心底好きだ。美しいと思う。
けれどそれをかき消したり、その存在を気づきにくくさせる音も同時に存在している。
私としては、それに関してイライラはしないけども、基本的にはまったくもってあきらめている。
だからこそきっと、そんな何気ない音がすっと掬い上げられ、個人のいわゆる特徴的という意味の個性を足すことなく(結果として区別的・差別的な個性にはなるものの)目の前に提示されたとき、自然と人間の中間地点であるかのごとき枯山水を見るような喜びを味わうんだろうと思う、私は。
個が個であればあるほど全体に近づくかのような、見れば見るほど見えなくなるようなアンビバレントなものこそ私は信じる。

結局それは自分が自分である確信の揺らぎ、そしてその揺らぎによって個の意識を得る、というような考えから来ているんだろうと思っているけども・・・。
ちょっとずれたのでこの話はまた今度。
とはいえ、話は結局一つしかなくて、何の話をしても同じ内容について違う言葉で話しているだけなんだろうとも思いつつ。

4.03.2009

お疲れ様です(?)

ルールがあるのはいい。必要な時もある。けどそのルールがそもそもどうして必要とされたのか、については考えた方がいい。

多くのルールが安全と友好のために作られたのは想像に難くないが、ルールはルールだから守るのだとする鋼のような脳みその人たちにそれ自体が阻まれることもまれではない。

青信号になったからといってわき目も振らず直進する人たち(車が来るかもよ!)、メールを「お疲れ様です」から始める人たち(疲れてないかも!それに理由なく労われるのって気持ち悪いかも!)。

すべての理由をルールや世間一般の曖昧で無責任な「常識」に求め、ルールの理由には見向きもせず、ルールを破る人を糾弾したり奇異の目で見る人にはほとほと疲れているが、どうもそんな人に会ってしまったようだった。
厳密にはすれ違ったのだが。全くの他人に私が日本がだめになる責任の一端を負わされた(?)。
同じ言葉を返したかったが、他人に向き合えない人に向き合う言葉はない。
そしてそれすら伝わらないだろうと思うと限られた命というエネルギーをそんなことには使えない。
人生って選択の連続なんだなぁという全く論点の違う結論に少し驚きつつ今日も赤信号を渡る。


3.31.2009

爆弾や地下水

こうなりたい、ああなりたい、とは今更あまり思わないが、足したり引いたりしたい部分があるのは常だ。そして、あまり他人から影響受けることはないのだけども、そういう部分だけは周りから影響を受けている、というよりいただいている、気がする。
友達と呼べる人たちは、尊敬してもしきれないほどの何かを持っている。そう考えればいいのか、そうすればいいのか、と、よく感心する。どれだけ古い付き合いでも、新しい爆弾を持ち込んでくるし、どれだけ最近知り合っても、時間では解決しえないほどの深くから水をくみ上げてくる。

先日ある友達にあなたは種を撒く人だと言われた。私自身はそれに気付いている場合も、気づいていない場合もあるらしい。自分では、鍵になっているイメージもたまに持つことがあって、ロックを外す役目も嫌いではない。いずれにせよ自分も、自分が作るものも、ドアを開けて見つけるものや場所というより、鍵そのものという方が合っている気が大いにしている。あとは差し込み方や開け方の問題で、これからも爆弾や地下水にお世話になりたい。

3.30.2009

中庸ねぇ。

結局望むところには行けて、望むことができる。
遅かれ早かれ、楽であれ酷であれ。
だったら早く気づいてそこに向かえばいい、という気持ちと、得た瞬間に「あ、コレを求めてた」と思えるような、見えてもいなかったものにそのときに気づける知を持っていればいいという気持ちがよく交錯する。
ずっと文句を言って暮らす人は、ずっと文句を言っていたいし、レストランでサラダを取り分ける人は、レストランでサラダを取り分けたいのだ。

もう色々なことを察して、期待して、空気を読んで、役割を演じるのはやめよう、と言語で認識してから相当たつけども、実は(大きな意味での)周りはあまり変わっていない。
小さな意味では世界は格段にそんな人に溢れてるけど、普通それは世界とは呼ばれないようなミクロな話。

AだったらBだろうからCがいいだろう、という思考パターンは統計的、経験的に蓄積されていく。
でも本当に?
だいたいそうだと言えても、今、この瞬間、この人は、と考えたときの瞬発力とイメージ力をそれは殺ぐ力も蓄える。
抽象化能力と系統的学習能力が高いほどその罠にはまりやすい気もする。
とはいえその二つは日常の瑣末なことを一気に生ゴミの日に出せる基本でもあったりして、結局ややこしい話。
中庸ってこれ?ここ10年余り、それを思っては、その、興奮できない言葉やアイディアにちょっと呆れる思い。
とはいえ最近、絶妙なタイミングで読んだ集団学習についての本にも東洋でもなく西洋でもない「そこ」(とはいえそれは西洋側からの視点だったため、一旦東を見るということで「そこ」に行く方法論も否定されてはいなかったけれども)にいて、個でもなく集団でもない人間であることが書かれてあり、ひどく共感を覚えた。
この、不思議なような、全く不思議じゃないような感覚はきっと全体を意識できる細胞になることなのかな、と想像したり。

位置を理解するために示された座標のないところに立った瞬間、逆に全体像が見えることにも似ているはず。

私にできることはまっすぐ立つことくらい。


3.26.2009

人を作っている分子とか気とか(同じものかもしれないけども)、最近どうも肉体の中にだけ存在するとはとても思えなくなってきていて、身体というのも何らかの「影響」や「余波」が固まったものなのかも、とすら考える。

その人がいなければその人の感情はそこにはないけども、そこには木がもともと生えている。
たとえばそういう時、その感情の余波が木の余波と重なって何かが起きるような気がする。
もっと考えると、人も何かと何かの余波だったりして、ということ。
気持ちがいい場所とか、気持がいい人とか気持ちがいい音楽の差がわからなくなってる。
それらはたまたま「気持ちがいい」の余波に含まれる要素とも言えるな、と。


余波のアナロジーとして手っ取り早いのが村だ。
ある村が好きだったり気持ちが良かったりする。それはその村を構成する人や建物や土や空気や全部によって可能になり、村もそのすべてを包含することができる。

具体的なことは大事だけど、村のことを考えること、そういう意識を持つことはもっと大事だという気がする。
良い村に住みたいし、良い村にしていきたい。
結局いつも結論は単調で退屈。
いつもいつもいつもいつも!

3.24.2009

偶然?

ある、多くの人が集う場所で、会ったことのない人に会う。
そこで初めて会った人が、その場にいる人ならば全員持つべきものを指して、初めて見たかのように、偶然、お揃いだね!とわざと驚く、そんな冗談を言った。
笑いながら、その人が一気に好きになった。
偶然は作れる、そう思えばいいだけじゃない?と言われている気がした。

いつも何気なく見ているものを新鮮な目で見ることが面白いし、笑っちゃうよね、という笑いの種類が私は好きだ。
笑いには、ずらしやら蔑みやらいろいろな方法があるし、結局は他者を友好的に受け入れるプロセスだと思うけども、私はこういう、「机上の空論」的な、”そんなこと・もの、存在しないのに、作ってみよう”というタイプのちょっと不条理な笑いが刺さる。
二人の人間が作り出せる関係もやっぱりどこか不条理で偶然に満ちたものだと感じるし、机上でしかありえないことも可能になるもの、年々そう感じずにはいられない。

In the wonderland

何かの中にいると、それを外から眺めることは難しい。
とはいえ、それが不可能かと言うとそうでもない。
ドラスティックな環境の変化によってそれがたやすくなるということは往々にして信じられているけども、結局のところそんなことも不要だったりする。
ただ座っていても、寝ぼけていてもできる。

最終的には想像力と、言葉による認識にどれだけ縛られないか、ということに尽きる気がする。
畢竟、意味を特定しながら、領域を切り分けながら成長する言葉というものに囲まれて、取り込まれながら、地に足をつけながらも、天空から見下ろすような作業をしているのか、という。
例えるならば、キノコに隠れるほどのアリスと、自分の足にさよならを言ったアリスを同時に自分の中に見つけること、かもしれない。

3.19.2009

Labeler

「請求書在中」、「検品済」など、スタンプで押された文字は日常にあふれている。
荷物の受け取りのためにハンコで押すこともあり、繰り返し書くことが了解されている文字については私たちはあまり手を煩わせることはない。
便利である一方で、行為が固定化し、思考も同じ轍をなぞるようになってくる。
(ハンコを無くし、一生懸命探しまわる間に、手でサインができるだろうに、という瞬間は特殊とは言えない)

では、一度も言ったことが無いこと、考えたことすらないこと、知りようもないことがスタンプになっていたら。
それを繰り返し使うだろう自分は、今の自分とは違う。
「繰り返す」という行為を未来に放り投げることは、見たこともない脇道に足を踏み入れることだ。
それは道ですらないかもしれないけれど。まだ。

そんなことを思ってこのシリーズを作った。



・今日の空は昨日の空より少し遠い
・陸に降らない雨の音は「ラ」
・言葉で言い表すことはできません
・今月 度目の嘘(空欄に数字を記入)
・今日 度目の嘘(空欄に数字を記入)
・ th lie of the month / day (空欄に数字を記入)

全て3150円。Spiral bankまたは直接オーダーにて購入可能。

3.18.2009

海に降る雨

絵や文字を書くことも含め、ものを作る、ということが表現だと思われがちで、それが人のあり方を決めるかのようなものの見方も横行しているけども、そんな風に思ったことは一度もない。職業による偏ったものの見方や言葉づかいこそ共通すれど、似たようなことをしているからという理由だけで人と何かをシェアできるなんて、大きな幻想だ、と思う。人間を否定した、機械的な考え方、とも思う。

先日、あるお店ですごい接客を見た。実に適切な瞬間に適切なことを伝え、自信もあるけども慎み深くもあり、無駄に敬うことも蔑むこともない。そんなお店に行くたびに、あー私には一生できない!と思っていたものだが、今回はそれを通り越えて美しいダンスを見るような軽やかで爽快な気分になった。完全にアートだった。

日常に、仕事場に、遊び場に、こんなアートはよく転がっている。美しく、効率のいい包丁のとぎ方や、雨にぬれる車のフロントガラスにもアートは隠れている。あとは見つけるだけ。

私もこんな、当たり前で、ひそやかなものが作りたい。作った物がすごい生命力で迫ってくるというよりも、何かをチラリと映すひとひらの雨粒のような。道路に落ちた雨が他の水と区別がつかないように、私の作品もどこかに埋もれて消えてしまえばいいとさえよく思う。残りたくも残したくもない。海に降る雨のようなものが作れればそれでいい。

3.17.2009

碁石

新しい場所で新しいことをやってみた。それもいくつか。予想以上だったこともあれば、思ったとおりにならなかったこともある。ただうまくいかなくても、必ず新しくわかること、感じることがあって、そういう意味では思ったとおりにならなかったことのほうが意味があるとも思えたり。
一つの場所では全然だめなものが、別の場所では理想形だった。またはそう示唆された。
本質的にダメなものなんてない、という考えが自己満足だけに繋がらなければそれでいい。
結局は何もかもが常に上々であり、常に中途半端でもある。
そのどちらもがそう見えるような位置に、健康に、立っていればいい。

そして久し振りに会った天使はもう一人の天使と一緒にいて、二人は碁石のように輝いていた!

3.11.2009

une carte postale

ずっと前はそれが普通だったのに今では特別になってしまった手書きの文字。
自筆を見たことがない知人のほうが多かったりするのも良く考えたら不思議なことかもしれない。
ただ逆にだからこそ、その力を感じやすくなっているのも事実。

手書きの文字によって運ばれてきたその空気の密度は、ちょうど空室になったばかりのアパートの空気の密度と一緒だと気づいては太陽の方角を憂う。


3.09.2009

天使

初めて会った彼女に、翌朝、電車の中で声をかけられるとは。
しかも、彼女は私が忘れていったことにも気づかなかったリングを持って、「これ、忘れたでしょ。会うような気がしたから持って出たの」と言った。
数年に一度しか訪れない街でも起きる偶然に開いた口が塞がらなかった。
「あなた私の天使でしょ?!」
ちょっと本気で疑った。

あれから2年。
今週末、天使の証拠を掴みにまたあの街へ。
すでに頭がむずむずする。


不時着

実は読むほどの空気なんてそう無いし、本当に気づくべき空気は「読む」ものじゃないというのはあまり語られない気がする。
それを口に出しても、心から同意してくれる人は本当に少ない。
響きのいい、とはいえ他者を強調する言葉で形容されてどっかに流されたりして終わる。
まったく不時着もいいところ。
吐き出すことで生まれる「雰囲気」は大事にすべきだけど、雰囲気のための雰囲気なんて意味がない。
年月のための年月と同じこと。
時間や年齢の概念なんて持たなければそれはそれで楽なのに。
結局は分かるかどうかで、それが一瞬で、そのときナニカに触れられるならそっちのがいい。私はね。





3.06.2009

リンゴのケーキ

かなりの頻度で訪ねるという理由において偶然と言えるほどの偶然ではないにせよ、立ち寄った先でケーキが私に食べられるのを待っていた、というシチュエーションはいろいろな方面に感謝すべき偶然と思える。
しかもちょっとご無沙汰だったり、たまにその場所で会いはするものの、実は連絡先を知らない、敬愛すべき人たちが大集合していて、呼ばれていたクリスマスパーティに遅れて顔を出したような気分。
実際は呼ばれてもいないし、クリスマスも祝わないけども。

ふらっとどこかに行く場合、やっぱり何かがふらっと起きる。
呼ばれているというか、導かれているというか。
結局のところ最近よく感じるのが、自分という存在を作る要素は自分の体には収まりきれずにだらだらとはみ出している、ということで、だからこそ、他人やモノのはみ出した部分から呼ばれたり避けられたりして、日々自分の知らない自分に”操られている”のかも!ということ。
逆にいえば、操られていると感じることでそれはすでに操られてないわけだから、無為/無意に委ねると解釈もできるのか。
とにかくその(肉体に収まることのない)全体像としての姿を意識して感じていればいい、ということなんだろうと思う。
積極的に漂流していきます。

2.28.2009

外国語

外国語を学ぶ面白さは、自国語ですら何かの翻訳だということに否応なく気づかされること、だろうか。
そして文化によって隠されたり表に出たりする特定のコンテクストの存在。
子供のころにどこかで過ごし、自然にバイリンガルやトリリンガルになっていなくてよかった、と思うことも多い。
言語を外から見る作業は自分の脳を裏側から見るような不思議さがある。
そして外国語で話すときの物事の切り分け方、伝達の仕方が母国語とは違うことに気づいたときのまるで双子のきょうだいを発見するかのうような面白さ。
あの言語のきょうだいを早く発見しないと。

2.27.2009

カタマリ

やたら人に会う。
街で、道で、電車で。今年に入って5人は会っただろうか。まだ2月なのに。
「人はどこから来て、どこに行くのだろうか」という哲学的問いに対し、私の場合、具体的問いだ。
あなたは、君は、彼は、彼女はどこから来て、どこに行くのか??
何かを届けてくれているのか、私が呼んでいるのか、喫緊の課題といってもいいくらい真面目に不思議だ。


偶然の必然:以前、友人Cとしたり顔で語ったけども、いよいよまごうかたなきそのカタマリよ。
何もかもが全然重要じゃなくて、何もかもが本当に重要だ。