離れがたいというわけではない。だいたいいつもあっさりと別れる。
どこかで、離れるとか離れないとかそういうことが問題ではないという意識も働きつつ、だったらどちらかが「ココ」にいない状況でも何の影響もないはずなのに、会ったときの充実感たるや、「会いたい」と思ってしまいそうになるほど。
会いたくないわけではまったく無く、実際よく会いたいと思ってしまうけれど、会いたいという気持ちともきっとどこかが決定的に違う。
そういう積極性によって交差する関係ではないというか。
補い合うわけではなく、単に隣で成長する木の芽同士、かのような。
同じ養分を吸い上げ、同じ光を浴び、葉を触れ合わせることなく、互いに花を咲かせる。
そして二人が話す言語は同じで、風の読み方も同じなのだ。
実は最初、その人の存在が信じられなかった。
何かを得て初めて「自分はこれが欲しかったんだ!」と気づくことがあるが、知り合ってすぐにそう感じた。
その年はそう思える人に数人出会うことができ、次々と自分が何を求めていたかを気づかされることになった。
おかげで、七夕の短冊に堂々と書けるような潔さでは意識すらしていなかったところに今では自由に行き来できる。意識の皮が剥けたかのよう。
今では人に出会うこと自体がドアを開けることだとはっきり五感で知覚している。
思えばこれも、その人に出会うことから始まったことのような気がする。
憶測や想像や邪推による押し付けがましい感謝はしないようにしたいが、やはり結果としての感謝はしておきたい。
私の思うところの「優しさ」―優しさは結果の一解釈であり、当然の行動をとった当人は「優しさ」を意識できない―と似て、感謝された方としてはワケのわからない話なんだろうけれど、ま、一応、いつか感謝の言葉を述べてみよう、かな。