3.31.2009

爆弾や地下水

こうなりたい、ああなりたい、とは今更あまり思わないが、足したり引いたりしたい部分があるのは常だ。そして、あまり他人から影響受けることはないのだけども、そういう部分だけは周りから影響を受けている、というよりいただいている、気がする。
友達と呼べる人たちは、尊敬してもしきれないほどの何かを持っている。そう考えればいいのか、そうすればいいのか、と、よく感心する。どれだけ古い付き合いでも、新しい爆弾を持ち込んでくるし、どれだけ最近知り合っても、時間では解決しえないほどの深くから水をくみ上げてくる。

先日ある友達にあなたは種を撒く人だと言われた。私自身はそれに気付いている場合も、気づいていない場合もあるらしい。自分では、鍵になっているイメージもたまに持つことがあって、ロックを外す役目も嫌いではない。いずれにせよ自分も、自分が作るものも、ドアを開けて見つけるものや場所というより、鍵そのものという方が合っている気が大いにしている。あとは差し込み方や開け方の問題で、これからも爆弾や地下水にお世話になりたい。

3.30.2009

中庸ねぇ。

結局望むところには行けて、望むことができる。
遅かれ早かれ、楽であれ酷であれ。
だったら早く気づいてそこに向かえばいい、という気持ちと、得た瞬間に「あ、コレを求めてた」と思えるような、見えてもいなかったものにそのときに気づける知を持っていればいいという気持ちがよく交錯する。
ずっと文句を言って暮らす人は、ずっと文句を言っていたいし、レストランでサラダを取り分ける人は、レストランでサラダを取り分けたいのだ。

もう色々なことを察して、期待して、空気を読んで、役割を演じるのはやめよう、と言語で認識してから相当たつけども、実は(大きな意味での)周りはあまり変わっていない。
小さな意味では世界は格段にそんな人に溢れてるけど、普通それは世界とは呼ばれないようなミクロな話。

AだったらBだろうからCがいいだろう、という思考パターンは統計的、経験的に蓄積されていく。
でも本当に?
だいたいそうだと言えても、今、この瞬間、この人は、と考えたときの瞬発力とイメージ力をそれは殺ぐ力も蓄える。
抽象化能力と系統的学習能力が高いほどその罠にはまりやすい気もする。
とはいえその二つは日常の瑣末なことを一気に生ゴミの日に出せる基本でもあったりして、結局ややこしい話。
中庸ってこれ?ここ10年余り、それを思っては、その、興奮できない言葉やアイディアにちょっと呆れる思い。
とはいえ最近、絶妙なタイミングで読んだ集団学習についての本にも東洋でもなく西洋でもない「そこ」(とはいえそれは西洋側からの視点だったため、一旦東を見るということで「そこ」に行く方法論も否定されてはいなかったけれども)にいて、個でもなく集団でもない人間であることが書かれてあり、ひどく共感を覚えた。
この、不思議なような、全く不思議じゃないような感覚はきっと全体を意識できる細胞になることなのかな、と想像したり。

位置を理解するために示された座標のないところに立った瞬間、逆に全体像が見えることにも似ているはず。

私にできることはまっすぐ立つことくらい。


3.26.2009

人を作っている分子とか気とか(同じものかもしれないけども)、最近どうも肉体の中にだけ存在するとはとても思えなくなってきていて、身体というのも何らかの「影響」や「余波」が固まったものなのかも、とすら考える。

その人がいなければその人の感情はそこにはないけども、そこには木がもともと生えている。
たとえばそういう時、その感情の余波が木の余波と重なって何かが起きるような気がする。
もっと考えると、人も何かと何かの余波だったりして、ということ。
気持ちがいい場所とか、気持がいい人とか気持ちがいい音楽の差がわからなくなってる。
それらはたまたま「気持ちがいい」の余波に含まれる要素とも言えるな、と。


余波のアナロジーとして手っ取り早いのが村だ。
ある村が好きだったり気持ちが良かったりする。それはその村を構成する人や建物や土や空気や全部によって可能になり、村もそのすべてを包含することができる。

具体的なことは大事だけど、村のことを考えること、そういう意識を持つことはもっと大事だという気がする。
良い村に住みたいし、良い村にしていきたい。
結局いつも結論は単調で退屈。
いつもいつもいつもいつも!

3.24.2009

偶然?

ある、多くの人が集う場所で、会ったことのない人に会う。
そこで初めて会った人が、その場にいる人ならば全員持つべきものを指して、初めて見たかのように、偶然、お揃いだね!とわざと驚く、そんな冗談を言った。
笑いながら、その人が一気に好きになった。
偶然は作れる、そう思えばいいだけじゃない?と言われている気がした。

いつも何気なく見ているものを新鮮な目で見ることが面白いし、笑っちゃうよね、という笑いの種類が私は好きだ。
笑いには、ずらしやら蔑みやらいろいろな方法があるし、結局は他者を友好的に受け入れるプロセスだと思うけども、私はこういう、「机上の空論」的な、”そんなこと・もの、存在しないのに、作ってみよう”というタイプのちょっと不条理な笑いが刺さる。
二人の人間が作り出せる関係もやっぱりどこか不条理で偶然に満ちたものだと感じるし、机上でしかありえないことも可能になるもの、年々そう感じずにはいられない。

In the wonderland

何かの中にいると、それを外から眺めることは難しい。
とはいえ、それが不可能かと言うとそうでもない。
ドラスティックな環境の変化によってそれがたやすくなるということは往々にして信じられているけども、結局のところそんなことも不要だったりする。
ただ座っていても、寝ぼけていてもできる。

最終的には想像力と、言葉による認識にどれだけ縛られないか、ということに尽きる気がする。
畢竟、意味を特定しながら、領域を切り分けながら成長する言葉というものに囲まれて、取り込まれながら、地に足をつけながらも、天空から見下ろすような作業をしているのか、という。
例えるならば、キノコに隠れるほどのアリスと、自分の足にさよならを言ったアリスを同時に自分の中に見つけること、かもしれない。

3.19.2009

Labeler

「請求書在中」、「検品済」など、スタンプで押された文字は日常にあふれている。
荷物の受け取りのためにハンコで押すこともあり、繰り返し書くことが了解されている文字については私たちはあまり手を煩わせることはない。
便利である一方で、行為が固定化し、思考も同じ轍をなぞるようになってくる。
(ハンコを無くし、一生懸命探しまわる間に、手でサインができるだろうに、という瞬間は特殊とは言えない)

では、一度も言ったことが無いこと、考えたことすらないこと、知りようもないことがスタンプになっていたら。
それを繰り返し使うだろう自分は、今の自分とは違う。
「繰り返す」という行為を未来に放り投げることは、見たこともない脇道に足を踏み入れることだ。
それは道ですらないかもしれないけれど。まだ。

そんなことを思ってこのシリーズを作った。



・今日の空は昨日の空より少し遠い
・陸に降らない雨の音は「ラ」
・言葉で言い表すことはできません
・今月 度目の嘘(空欄に数字を記入)
・今日 度目の嘘(空欄に数字を記入)
・ th lie of the month / day (空欄に数字を記入)

全て3150円。Spiral bankまたは直接オーダーにて購入可能。

3.18.2009

海に降る雨

絵や文字を書くことも含め、ものを作る、ということが表現だと思われがちで、それが人のあり方を決めるかのようなものの見方も横行しているけども、そんな風に思ったことは一度もない。職業による偏ったものの見方や言葉づかいこそ共通すれど、似たようなことをしているからという理由だけで人と何かをシェアできるなんて、大きな幻想だ、と思う。人間を否定した、機械的な考え方、とも思う。

先日、あるお店ですごい接客を見た。実に適切な瞬間に適切なことを伝え、自信もあるけども慎み深くもあり、無駄に敬うことも蔑むこともない。そんなお店に行くたびに、あー私には一生できない!と思っていたものだが、今回はそれを通り越えて美しいダンスを見るような軽やかで爽快な気分になった。完全にアートだった。

日常に、仕事場に、遊び場に、こんなアートはよく転がっている。美しく、効率のいい包丁のとぎ方や、雨にぬれる車のフロントガラスにもアートは隠れている。あとは見つけるだけ。

私もこんな、当たり前で、ひそやかなものが作りたい。作った物がすごい生命力で迫ってくるというよりも、何かをチラリと映すひとひらの雨粒のような。道路に落ちた雨が他の水と区別がつかないように、私の作品もどこかに埋もれて消えてしまえばいいとさえよく思う。残りたくも残したくもない。海に降る雨のようなものが作れればそれでいい。

3.17.2009

碁石

新しい場所で新しいことをやってみた。それもいくつか。予想以上だったこともあれば、思ったとおりにならなかったこともある。ただうまくいかなくても、必ず新しくわかること、感じることがあって、そういう意味では思ったとおりにならなかったことのほうが意味があるとも思えたり。
一つの場所では全然だめなものが、別の場所では理想形だった。またはそう示唆された。
本質的にダメなものなんてない、という考えが自己満足だけに繋がらなければそれでいい。
結局は何もかもが常に上々であり、常に中途半端でもある。
そのどちらもがそう見えるような位置に、健康に、立っていればいい。

そして久し振りに会った天使はもう一人の天使と一緒にいて、二人は碁石のように輝いていた!

3.11.2009

une carte postale

ずっと前はそれが普通だったのに今では特別になってしまった手書きの文字。
自筆を見たことがない知人のほうが多かったりするのも良く考えたら不思議なことかもしれない。
ただ逆にだからこそ、その力を感じやすくなっているのも事実。

手書きの文字によって運ばれてきたその空気の密度は、ちょうど空室になったばかりのアパートの空気の密度と一緒だと気づいては太陽の方角を憂う。


3.09.2009

天使

初めて会った彼女に、翌朝、電車の中で声をかけられるとは。
しかも、彼女は私が忘れていったことにも気づかなかったリングを持って、「これ、忘れたでしょ。会うような気がしたから持って出たの」と言った。
数年に一度しか訪れない街でも起きる偶然に開いた口が塞がらなかった。
「あなた私の天使でしょ?!」
ちょっと本気で疑った。

あれから2年。
今週末、天使の証拠を掴みにまたあの街へ。
すでに頭がむずむずする。


不時着

実は読むほどの空気なんてそう無いし、本当に気づくべき空気は「読む」ものじゃないというのはあまり語られない気がする。
それを口に出しても、心から同意してくれる人は本当に少ない。
響きのいい、とはいえ他者を強調する言葉で形容されてどっかに流されたりして終わる。
まったく不時着もいいところ。
吐き出すことで生まれる「雰囲気」は大事にすべきだけど、雰囲気のための雰囲気なんて意味がない。
年月のための年月と同じこと。
時間や年齢の概念なんて持たなければそれはそれで楽なのに。
結局は分かるかどうかで、それが一瞬で、そのときナニカに触れられるならそっちのがいい。私はね。





3.06.2009

リンゴのケーキ

かなりの頻度で訪ねるという理由において偶然と言えるほどの偶然ではないにせよ、立ち寄った先でケーキが私に食べられるのを待っていた、というシチュエーションはいろいろな方面に感謝すべき偶然と思える。
しかもちょっとご無沙汰だったり、たまにその場所で会いはするものの、実は連絡先を知らない、敬愛すべき人たちが大集合していて、呼ばれていたクリスマスパーティに遅れて顔を出したような気分。
実際は呼ばれてもいないし、クリスマスも祝わないけども。

ふらっとどこかに行く場合、やっぱり何かがふらっと起きる。
呼ばれているというか、導かれているというか。
結局のところ最近よく感じるのが、自分という存在を作る要素は自分の体には収まりきれずにだらだらとはみ出している、ということで、だからこそ、他人やモノのはみ出した部分から呼ばれたり避けられたりして、日々自分の知らない自分に”操られている”のかも!ということ。
逆にいえば、操られていると感じることでそれはすでに操られてないわけだから、無為/無意に委ねると解釈もできるのか。
とにかくその(肉体に収まることのない)全体像としての姿を意識して感じていればいい、ということなんだろうと思う。
積極的に漂流していきます。