音を聞きに行った。
物音と音楽の中間くらいの「音楽」を。
一日中動き回って疲労していたせいか、どうも集中できず、やや幽体離脱気味な思考状態になり、それを聞きながらも、「なぜこういう音が好きなのか」ということについて考えた。
朦朧とした脳で考えたところの結論は:見出すことで意識される/意識することで見出される日常や自然の音の存在を美しさを損なわずに伝えるから。
たとえば電車に乗っているときの電車のリズムや人が歩くときのステップや衣擦れの音-そんな音が心底好きだ。美しいと思う。
けれどそれをかき消したり、その存在を気づきにくくさせる音も同時に存在している。
私としては、それに関してイライラはしないけども、基本的にはまったくもってあきらめている。
だからこそきっと、そんな何気ない音がすっと掬い上げられ、個人のいわゆる特徴的という意味の個性を足すことなく(結果として区別的・差別的な個性にはなるものの)目の前に提示されたとき、自然と人間の中間地点であるかのごとき枯山水を見るような喜びを味わうんだろうと思う、私は。
個が個であればあるほど全体に近づくかのような、見れば見るほど見えなくなるようなアンビバレントなものこそ私は信じる。
結局それは自分が自分である確信の揺らぎ、そしてその揺らぎによって個の意識を得る、というような考えから来ているんだろうと思っているけども・・・。
ちょっとずれたのでこの話はまた今度。
とはいえ、話は結局一つしかなくて、何の話をしても同じ内容について違う言葉で話しているだけなんだろうとも思いつつ。