最近よく思うのが、人は文化の外に出て行けるのかということ。
言葉を話し、物を考えるということ自体が文化であることを思えば、こんな問いが、終わりのないいたちごっこのような気もしつつ。
人間の行為のどこまでが文化なのだろう。想像力は?創造性は?
考えてみれば、これらがどこに属すのか、も謎としか言いようがない。
個人的には、想像力と創造性はヒトに属し、文化ではないような気がしているが。
(それは私個人の信仰かもしれないけれど)
国や地域や人種や家庭によって異なる習性が文化であり、それが教育と思い込みから生まれているとしたら、それが刷り込まれる前の状態は何なのか、どうなのか。
それが野蛮一言で片付かないことはうすうす感じているものの、きっとそれも含むのだろうし、もしかしたらそれと一体にすらなっているのだろう。
悲しいかな、野蛮さを失った「文化」人として生きてしまっているこの体を急に野獣と入れ替えることも叶わず、頭もいまだ柵の中である私としては、清々しいまでの柵の外で起きる蛮行を目にするとき、実はどこかで納得している。
それは悪でありながら悪意とは無縁で、意図や人為を超えている。
まるで竜巻のように凶暴で無差別で平等で不平等な。
外国に行かないまでも、他人という異文化に接するたび、よくこの文化の柵を上から見下ろす。
越えられるかどうかはわからないが、柵の終わりが見えるような、気がしたりしなかったり。
5.07.2010
5.06.2010
霧
最近展覧会をいくつかしてみて、改めて、いろいろな場所のいろいろな人のいろいろな意識について考えさせられる。
ギャラリーという形態やお店としての考え方や、ものを売る、買う、という行為への思い。
慣習となっている「場所代」について、納得できる場所とできない場所の違いは、厳密には言葉にできない「心意気」にかかっていたりする。
ものを作って、持ち込んで、売ろうとする作家に対して、「売れるといいですね」というある種の温かくも他力本願な言葉をかける店主は、それによってどれだけ自分の価値を下げているのかに気がつかない。
そしてそれを言われてどれだけこちらががっかりするかにも。
もちろん最終的に誰が何を買うかなんてわからないけれど、だからといって最初から「どうなんでしょう?」という無邪気な態度は物を売ることが仕事である人の言葉とは思えない。
無知や未経験はどうでもいい。
気持ちと想像力さえあれば。
一度、そぐわない場所に行ってみて初めて、自分のいるべき場所がそこ「ではない」ことがわかり、それ以外を試すというなんとも効率の悪い動きをずっとしているわけだが、そろそろ視界が晴れてきた。
あとはあそこに向かう動力を。
ギャラリーという形態やお店としての考え方や、ものを売る、買う、という行為への思い。
慣習となっている「場所代」について、納得できる場所とできない場所の違いは、厳密には言葉にできない「心意気」にかかっていたりする。
ものを作って、持ち込んで、売ろうとする作家に対して、「売れるといいですね」というある種の温かくも他力本願な言葉をかける店主は、それによってどれだけ自分の価値を下げているのかに気がつかない。
そしてそれを言われてどれだけこちらががっかりするかにも。
もちろん最終的に誰が何を買うかなんてわからないけれど、だからといって最初から「どうなんでしょう?」という無邪気な態度は物を売ることが仕事である人の言葉とは思えない。
無知や未経験はどうでもいい。
気持ちと想像力さえあれば。
一度、そぐわない場所に行ってみて初めて、自分のいるべき場所がそこ「ではない」ことがわかり、それ以外を試すというなんとも効率の悪い動きをずっとしているわけだが、そろそろ視界が晴れてきた。
あとはあそこに向かう動力を。
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