5.01.2009

500年後の平等

必要なものはみんな違うのに、同じものを与えたり得たりすることが平等だと思っていて平等が善だと固執する人たちがいる。
もらったからあげる、返す、という固定化した思考。
しかも社会的に同じ程度のものを、という余計な分別。
あ、あの人に似合うな、と思って買ってきただけのお土産に1週間後には当たり障りのないお菓子が返ってきたり、独り言めいたメールにもすべて返信。
義理や「悪い」という感覚が悪いというわけではない、ということなど全く思わない。つまり悪い。
当たり障りのない関係を維持するためには必要かもしれないが、ぶつかるかもしれない、というリスクを根本に含む、「先へ」行ける関係のためには障害でしかない。

人間関係は過去の恩義で成り立っているのではなく、今この瞬間、たがいに自分自身をさらに理解・許容することを可能にしてくれる相手を求め会う気持ちで成り立っているし、そうでなければ「維持するために維持する」魔のスパイラルで自分が消費されるだけ。
自分を理解してくれる人がいることに安心するために人といるわけではなくて、とはいえ、だからこそ結果的にはそこに充足感もあるけども、自分が自分を理解したい。
そんなエゴイスティックな考えでいたとしても、それがエゴであることを知っている限り、相手にそれを押しつけることはないだろうし、瑣末な「義理」や「遠慮」などという感覚は視界を曇らせることが最初からわかっているからこそさっさとトイレに流し済み。
それをもってしても、自分が思ったことを思ったように言うということがある種、自由の権化のように神聖化されていて、そうするだけで逆にエゴイスティックに見える場合もあるようだけれど・・・。

このあたりの考え方は基本が違うとどうどうめぐりなんだけども、ざっくり言うと、タイムスパンの問題でもある。
平等も義理も、それを交換するという概念を受け入れたとして、1週間とか10年とかいう単位で返そうとするから問題かもしれない。
だから最近、「50年以内に返して」、と言うようにしている。
150年でもいい。500年でもいい。
この感じが実は輪廻転生のカルマの考え方と似てるのが面白いが、もうなんでもいい。
返さなくていいし、忘れていい。
欲にのみ生きたときこそ、無欲になるのこの感じ、ホント楽。