10.04.2010

読めない法律
















あなたの言語で書いて、と言われて書いたお礼のメッセージの翻訳。
自分のメッセージがわからない不思議。

もう少し長く居たかった、という内容が、どこか遠い場所の法律でも読んでいるようだ。
人間は道の左側を歩くべし、相手を尊重すべし、など、時代もだいぶ遡った雰囲気。
なんで?と啖呵を切っている現代の自分とは程遠いけれど、意外にその国は遠くなかった、とでもいうような。

9.27.2010

虹の建物、羊の景色

いろいろなイベントやら事件やらが起きていて一つ一つについて行くのが精いっぱいな日常。
揺さぶられたり、がっかりしたり、嬉しかったり、憤ったり、穏やかになれたり。
それが同じ一日に起きたりして、しかもそれに対して戸惑わない自分に戸惑う。
それにしてもそんな中見た羊。
なんだか無になった。
そんな状態で見られた同行者にも感謝。
行動に感じる既視感の中、雨の中、帰宅。
全てを覚えているような、全てを忘れたような。

8.23.2010

こうでなければならないという決まりを自分で決めて、それにがんじがらめになっている人を見ると不思議な気持ちになる。
本気で苦しんでいるからだ。
外国の変わった風習について見聞きするとき、お煎餅片手に「へぇー」と言ってしまうものだが、そんな気持ちになる。
そして、そのルールに対してその人自身がどうしてそう思わないのかといぶかしく思う。
そもそも、往々にして他人のルールは意味がわからない。
もちろん私にもルールがあって、それは他人には意味がわからないだろう。
そこには差別もあるし、比較だってあったっていい。
それが?何か?
と互いに言っていればそれでいいのに、とよく思う。
そこに意味なんてないのにー。
自分のルールにだって意味はないし。
変わった風習ですね、で終わりでいい。

先日アメリカのドラマを見ていて、この話とまったく違うコンテクストではあるものの、面白い表現があった。
you are an island.
もう組織とは関係ない、孤立無援だ、こちらにも構うな、というような意味で使われていた。
これに対し、そうそう、みんな島だよ!とトンチンカンなアングルから賛同。
無人島ではなく一人島。

私の島はどんな景色なんだか。

8.15.2010

二時と隕石と雨、花と結晶と水

曖昧でありながら、なにものかが現れ出る時間、二時。
六月に温まり始めた地表がようやく八月に本格的に熱を放出し始める夏のように、
本当に寒いのが冬至を数十日も過ぎた1日であるように、その始まりは「今」ではない
それはなんでもないことであり、どうにもできないことでもある
それは、それが始まるまで、それが始まることを、始められたことですら自覚できず、客観視もできない
待っていればいいというのでもなく、始めようとすればいいのですらない
それは溜まり、満ち、溢れるものでしかなく
始まりには始まりは無い
しかしそれでもそれは始まるのだ


流れ星のうち、特に大きいものは空気との摩擦熱で燃えつきることなく、地上にたどり着く
隕石だ
空には轟音と共に燃え盛る火球が現れ、空から石が落ちてくる
時には贈り物のように、時には雨のように
表面は大気との摩擦熱で溶けた黒い皮で覆われ、中には多くの金属が含まれる
金属が磁石に引きつけられるように、
まるで事件と自然現象のちょうど真ん中に、重力との約束によって
そうだ、とばかりに突然に、隕石が落ちてきた


前線付近では、上空へ水蒸気が運ばれ、背の高い雲 が発生しやすくなるため、雨が降りやすい状態になる
北側の冷たい空気と南側の暖かい空気が地表面で接しているところで、冷たい空気と暖かい空気の境界面は上空に伸び、空気は混ざり合う
うす曇の空は本曇りとなり、焦点深度は深く、植物の呼吸は浅く変化し、人々は埃に酔う
ガラスは収縮し、プラスチックは温度を変える
麻は木綿の性質を模倣するかのごとく湿気を帯び、木綿は蚕の夢を思い出そうと必死に喘ぐ
鏡は黒ずみ、鉄は臭いを放つ
そして、
雨が降り出した


花芽が分化し、葉の形成は生殖成長に転換され、花芽は蕾へ
太陽が光を彼らに注ぐ時間と、光がどれだけ彼らを温めるかにより蕾の発育は左右される
夏に分化し、越冬するものは、葉から送られる眠り薬で成長をごまかされ、
そのうちまた葉から送られる気付け薬で春に目を覚ます
日照時間の増加と共に頭ははっきりと冴え渡り、もう黙っていられなくなる
もう閉じていることはできない、
開かないでいることができないと
花は咲いた

原子が規則正しく並んだ結晶の構成と生成には数十時間から数億年までの時間を要する
水や水晶など、ガラス以外の多くの物質が結晶化する
形を得ようと時間を費やし、それを得た途端、呼吸をやめる、
もしくは、不変でありつづけることを決意することにも似て、
それは結晶化した


水が溢れ始めた
ガラスの器に入れていたからだ
その器に切れ目無く、際限なく、永遠に水を注いでいたからだ
水を注ぐ音はまったく鼓動と同じリズムだったので、気づくことはなかった
誰も、水も、グラスさえも
どの観察者から見ても光の速度は一定でありながら、速度が光速に近づくにつれ、時間が歪められるように、
「溢れる」という観察者をもって初めてそれは知覚された、
ああ私は器を持っていたんだと、そして水をそこに注いでいたんだと
水が溢れた
水が溢れ始めた
水が溢れ始めたことを知った
全ては過去形だったのだ
















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数年前に書いた詩をふと載せたくなったので。

8.06.2010

川と魔法と神戸

だいぶ以前だったら、誰と誰がいつどこに来る、と決めて飲んだり食べたりしていた。
最近はなんとなくいた場所になんとなくいる人と話をしたり行動を共にする。
その流れる川のような動き方、気持ちがいい。
いつも同じ顔でもないし、いつも違うわけでもない。
初めてだろうが20年来だろうが関係なく、いま・ここ、な関係というのはいま・ここにしか現れない。
その中で臆せず照れず飾らず驕らずいることが一番大事だし、実は一番楽でもある。
関係のアフォーダンスはこういう中であきらかに立ちあがってくる。
まるで魔法のように。
シンプルで美しいこの魔法が私は大好きで、かといって、夢想したり、予測したりできないその本質になんとも焦れる。
この、言葉が届かない感じもイイ!
言葉を使ってる理由ってこれだ、という感じがして。

では、そんな魔法を求めてこれから神戸へ。
旅立って参ります。

7.25.2010

記憶喪失の果ての幽体離脱

本当に記憶力がない。

時間が連なって過去や未来がある、というコンセプト自体に興味が薄いからか、馬鹿なのか。
同時に計画能力もないし、整理能力もない。

先日、出会った人と意気投合し、話しこんでいたら、昨年に出展したイベントでも話し込んでいたことがだいぶあとになってわかった。
名刺交換までしそうになりやっと気づくという体たらく。
話した内容は前回とは全く違っていたのと、場所などのコンテクストが違っていた、けれども・・・、ねぇ。いつものことだが、自分に呆れる。

上記の言い訳のほかに言えることといえば人ではなく話を見ている、ということくらいか。
それに人や会った回数によって話す内容を変えていないので、共感を得にくい考えについて語るときの相手の「引き」方や「ノリ」方によってのみ人を識別しているといっても過言ではなかったりして。
「へぇ、ここで引くんだ」とか「この人とは話が展開するなぁ」とか。
結局他人に興味がないんだ、と、私をよく知る人にはよく言われる。
ま、そうかもしれない。

何にせよ、いろいろなミネラルの通り道としての人間(何かが人間に吸収されて排出されるということは車がトンネルを通るように、人間が通り道なのかも、という観点で)よりも通るものに興味があるというのは最近感じる。
塩に対する興味とか、まるで思考が幽体離脱している、我ながら。
けどそれが本当にやめられない。
あぁ塩になりたい。

7.04.2010

収穫期

一人の人間に対して、不思議なような、ありがたいような、すがすがしいような、熱いような、わくわくするような、新しいような、刺激的なような、穏やかなような気持ちになれるということ自体、恵まれていると思う。
この前の久々の会合の収穫は、今まで言い表しがたかった頭の中のバランスに言葉が与えられたことと、自分が、モノを作るという仕事をすることを選んだときに心のどこかに引っかかっていた小さな理由を改めて思い出せたということ。
その後者の理由は、前者のバランスという意識がない限り理解することのできないものだったので、このバランスが話題に上らない限り(そしてあまり上らない)自分の中に浮かんですらこないものだった。
その言葉はあえて書かないが、言葉と非言葉の間を行き来する、そのバランス感覚あってこそ私は非言葉を選んだのだ、という事実と選ばなかった言葉に対する態度。

自分の中にすでにずっとあって、そこにあったことは知っていても気づかないことはある。
もしくは忘れてしまう。
使わない脳神経は死に絶えるように、意識を向けない限りそれは埋もれていく。
それを掘り起こすことだけがいいとも思わないけれど、やはり必要な時に必要なことは起こるものだ。

そしてまた別方向から嬉しすぎる提案。
こちらは実現の際にまた改めて。

5.07.2010

柵のある景色

最近よく思うのが、人は文化の外に出て行けるのかということ。
言葉を話し、物を考えるということ自体が文化であることを思えば、こんな問いが、終わりのないいたちごっこのような気もしつつ。
人間の行為のどこまでが文化なのだろう。想像力は?創造性は?
考えてみれば、これらがどこに属すのか、も謎としか言いようがない。
個人的には、想像力と創造性はヒトに属し、文化ではないような気がしているが。
(それは私個人の信仰かもしれないけれど)

国や地域や人種や家庭によって異なる習性が文化であり、それが教育と思い込みから生まれているとしたら、それが刷り込まれる前の状態は何なのか、どうなのか。
それが野蛮一言で片付かないことはうすうす感じているものの、きっとそれも含むのだろうし、もしかしたらそれと一体にすらなっているのだろう。
悲しいかな、野蛮さを失った「文化」人として生きてしまっているこの体を急に野獣と入れ替えることも叶わず、頭もいまだ柵の中である私としては、清々しいまでの柵の外で起きる蛮行を目にするとき、実はどこかで納得している。
それは悪でありながら悪意とは無縁で、意図や人為を超えている。
まるで竜巻のように凶暴で無差別で平等で不平等な。

外国に行かないまでも、他人という異文化に接するたび、よくこの文化の柵を上から見下ろす。
越えられるかどうかはわからないが、柵の終わりが見えるような、気がしたりしなかったり。

5.06.2010

最近展覧会をいくつかしてみて、改めて、いろいろな場所のいろいろな人のいろいろな意識について考えさせられる。
ギャラリーという形態やお店としての考え方や、ものを売る、買う、という行為への思い。
慣習となっている「場所代」について、納得できる場所とできない場所の違いは、厳密には言葉にできない「心意気」にかかっていたりする。
ものを作って、持ち込んで、売ろうとする作家に対して、「売れるといいですね」というある種の温かくも他力本願な言葉をかける店主は、それによってどれだけ自分の価値を下げているのかに気がつかない。
そしてそれを言われてどれだけこちらががっかりするかにも。
もちろん最終的に誰が何を買うかなんてわからないけれど、だからといって最初から「どうなんでしょう?」という無邪気な態度は物を売ることが仕事である人の言葉とは思えない。
無知や未経験はどうでもいい。
気持ちと想像力さえあれば。

一度、そぐわない場所に行ってみて初めて、自分のいるべき場所がそこ「ではない」ことがわかり、それ以外を試すというなんとも効率の悪い動きをずっとしているわけだが、そろそろ視界が晴れてきた。
あとはあそこに向かう動力を。

4.19.2010

内側













旅先でパイプオルガンの内側を見る機会があった。
整然と並ぶいろいろな太さや長さのパイプ。

これに象徴されるように、かの地の歴史的に、人種的に、言語的に複雑に絡み合った「今、ここ」を裏側から見ることができたように思う。
主張しない者・物は存在しないも同然である社会の、知的な振る舞いにも、野蛮な振る舞いにも出くわし、いずれも、一方が他方の副産物であるような関係を目にすることで、味の濃いチーズも気分が悪くなるほど華美なつくりの建築も、微妙で曖昧なルールや美学も納得できるような気がした。
この地に魅了される人もいるのだろうが、私は不思議なほどニュートラルで静かな気持ちになった。

相変わらず、髪を振り乱して愛を叫びたい国はアジアのあの島であるまま、この大陸の繊細さと大雑把さと鷹揚さに冷静に感銘を受けた。
あらゆる意味で私にとって現実的な場所であったし、これからも強いつながりを持つことがひしひしと感じられた。
最初は強い驚きと困惑に満ちていた、挨拶のキスもしまいには当然に思えてしまったほど。

この中心なき世界には内側と外側だけが存在する。
問題は、どこに境界線があると自分が感じるか。
私が「ここ」で感じていた境界線の続きを「あそこ」で発見したような、「ここ」が「ここ」でなかったような。
そんなことをいまだに直らない時差ぼけの頭で転がす日々。

4.14.2010

"alto galleria" and "valérie berckmans" in Brussels ブリュッセルにて販売始まります!

ブリュッセルのギャラリー・ショップにてジュエリーの販売始まります。
お近くにお寄りの際はぜひ覗いてみてください!

My (_cthruit) jewelleries will be sold at alto galleria and valerie berckmans, both in Brussels.
If you are in Europe, take a peak!

alto galleria: modern and contemporary art jewels
ru du bailli 52, 1050 bruxelles, belgium
open 11:00-18:00
closed on sundays and mondays
+32 (0)2 644 28 38












valérie berckmans: clothing shop
rue van arteveldestraat 8, 1000 bruxelles, belgium
open 11:00-18:30
closed on sundays and mondays
+32 (0)2 502 94 00

上陸










文化と文化が肌でぶつかり合う小さな国に少し滞在していた。
海に浮かぶ平和な小船出身の自分としては想像もできないほどの複雑ぶりと、そこに住む人々の柔軟さと強情さに驚くこともしばしば。
歩き回り、街を知り、友達ができ、新しい家族に迎えられ、その家族に出会い、見たことのない景色を見、飲んだことのないないものを飲み、それでいて普通の生活をする。

チョコレートのように濃厚な時間となり、その余韻にまだ揺さぶられている。

それにしても、自己主張すればどうにかなるという大陸文化にも、相手を気遣うことで自分を殺す島文化にも違和感を感じつつ、上陸も悪くないと感じ始めた。

3.12.2010

今後の予定

5/1-5/31 個展@soyacoco (岐阜県土岐市)
7/16-25  個展@ギャラリー安曇野(青森県弘前市)
9/1-9/14 2人展@seta-shop gallery(東京都世田谷区)
11月(日程未定) 2人展@尼ヶ坂(愛知県名古屋市)

今年は東京から出てあちこちに、特に東海地方に行きます!
お近くの方はぜひ。

2.09.2010

「あ。」

本来ならば出かけたくないような日に、どうしても出かけたくなり、行ってみた場所が深い印象を残すことは驚きでもあり納得でもあり。
先月のある日、なじみの無いエリアにある、しかも行ったことの無いその場所に、すっかり日も暮れた時間に着いたとき、安堵するような、びりびりと刺激されるような不思議な感覚に陥った。
数ヶ月前に、どこか遠くからサインのようなものは送られていたようだったけれど、読み取ったのはまさにその日だった、という感覚。

私には、自分の感覚に鋭く訴えるモチーフやその組み合わせや、ものの見方がいくつかあって、それが目線の端にチラリと映ったとき、どうも一瞬思考が止まるようだ。
「あ。」と。
今回の「あ。」は、最初、初めての大きなイベント、初めて出会う多くの人、初めての経験、という、どこか研ぎ澄まされた一方で何かが鈍るような状況で感じ取った。
そしてその「あ。」はその後の忘却や沈黙、その状況の興奮や混乱をすり抜けて、何かのアンテナを通じて何かを強く送ってきた。
そんなわけで、もうほぼ操られるような状況でそこに向かい、その人に会い、あの人に会い、それを見た。

初めて見たのに/会ったのに、これがずっと見たかった/この人にずっと会いたかった、と思えるような出会いしか結局必要ない。
身も蓋もないというのか、大いなる諦めなのか、または希望的観測なのか。
いずれにせよ、そう感じさせてくれる「あ。」にはちゃんと気づいて、反応して、操られていこう、と思う。

1.26.2010

願い

1週間ばかり、怪我のような状態で寝込んでいたのがやっと回復基調に。
今年始まって最初のエントリーがこんな内容なのも情けない話だが、体が資本!というのを嫌というほど感じる機会になった。
痛みって何?と、根本的なところに逆切れしそうになりながら、自分の危険察知能力の低さに嘆く。
まったく。

さて、今年の目標は「引越し」。
上野あたりで50平米以上、4-5万が希望。14-15万じゃなくて。
頭がおかしいのかとどやされながらの家探しになるだろうことに気を引き締めつつ、今はひたすら来月の個展の準備。
去年、「来年は東京の外で展示がしたい」と思ったら今年は地方で4本、展覧会が決まった。
中部地方に縁があるのか、岐阜、岐阜、名古屋、青森のギャラリーで、そのどれもが楽しみ。
願えば叶うもんだ。
というわけで不動産情報、お待ちしてます!