10.30.2013

trees with long sox on

Trees that looked as though they wore long soxes were lined up like dancers along the pedestrian path in Brussels.

9.11.2012

猫との生活

日常が過ぎていく。
不思議と心は軽く。
夢の一つだった、猫との生活に日々感謝。
ああ動物って。ほんとに頭が下がる。
人生の師匠が突然同居しにきてくれたという感じ。
本能とある種の諦観と生き物としての洞察。

そして猫の美しさ。
単体で行動するネコ科動物は社会的表情を持つ必要が少なかったことで
表情が乏しいと何かで読んだが、ずっと一緒にいればそれなりに心は繋がるもので
わずかな顔面筋肉の収縮などで表情も読み取れるようにもなる。

非人間と一緒にいることで自分という人間のエゴも浮き彫りに。
一晩一人(一匹)で過ごすことはさびしすぎて耐えられないのでは、など、
寂しいと一瞬思うことがないとはいえないまでも、
耐える・耐えられないというのは人間の尺度かと思ったりする。
猫にとっては単なる環境の変化の一つであって、
「適応しなければ死」という“通常の“世界観にあっては
適応しない、という選択肢はないわけで。

しつけ一つとっても、猫的目線で考えたらなんて不条理な、ということを
押しつけているんだろうとよく思う。
それでも人間社会に沿うように(たとえば訪ねてきた友人にかみついたりしないように、とか)
あれやこれやしつけてるわけだが。

ともあれ憧れの猫生活。
ますます出不精の最近。

4.28.2012

半年

半年間もブログを放置していた。
ということに気付かなかった、というか、それが気にならなかった。
この間にあったことを思い返すも、年末、猛烈に人に会ったような気がしたが、同じ人に何回も会ったんだったっけ、とか、あれ?そうじゃなかったかな、とかとにかく記憶があいまい。

まず年末は展示会を終えるとすぐに引っ越し準備。年始に金沢に引っ越し。
3週間後、金沢市内でまたすぐに引っ越し。
1月は小学生の夏休みばりに休んで過ごし、新しい街を観光、そして生活のためのあれやこれや。
3月は東京での二人展。2月はその準備に追われる。
もしやここには春が来ないのではというほどの寒さから一転して金沢にも春が。
桜を見たり散歩したりしつつ4月末の展覧会準備。
その間、今まで大事かもと思っていたものがそうでもないことがわかったり
いい加減、小さなイライラも溜まると身動きできないほどになると感じたり
ものすごく大事なものがなくなって悲しみの底にいたり
新しい物を見つけて嬉しかったり
していた。



天気とは裏腹に気持ちがふさぐのでフランス語の動詞活用を一から復習している。
物事を学んだりやり方を覚えたりするとき、全体像からつかもうとする人とディテールから詰めていくタイプとがいるが、私は確実に前者で、「とりあえずだいたい」で生きている。
骨組みがわからないことにはどこにも行けない、と思いがちだし、そもそも頭に入ってこない。
と、考えると、人は学んだり教えてもらったりしている、いわば受け身の状態でも何かを選び取っていると思う。
自分の中に蓄積された情報のカタチを見ることで自分が情報をどう扱おうとしているかがわかったりして、教わるというのもなかなか面白い経験だ。
まるで自分の思考の裏側の表出を見るようで。
そしてさまざまある情報の中で「言語」とくに外国語はあからさまに外来なので蓄積された情報の形が見やすくて面白い。
というわけで次は条件法。
しかし思考のカタチを見ることがこれほど地味な作業とは。

10.02.2011

すごくないことのすごさ

台風が上陸してきた方角を目指して短い旅に出たものの、あっさりと空は晴れ渡り、不思議なほどに静かな時間を過ごしてきた。
車で片道6時間弱という移動があまり苦にならないのは、道連れはもとより、仕事の顔をして実は「顔を見に来ただけ」という簡単な理由で会いたくなってしまう人のおかげ。
考えたら彼女には今年に入って会うのは3回目だった。
下手をしたら市内の友人より会ってる!と思うと距離ってなんなんだと不思議だ。

物理的な距離と心理的な距離はよく比較されるが、なんだかもうどうでもいい。
会いたい人に会いたいだけだ。
けどそれは最終的に一人に絞っていくような選択的な話ではなく、
経験則に基づく慎重さが求められるわけでもなく、
その瞬間、目にしたことや思いついたことやめぐってきたことにオープンになり、どれだけそれらと”対等に”付き合えるか、ということに尽きるように思う。
その中で「会いたい」という意思をも超えて「会いたい」と感じられればそうする、という自然。
ロマンチックな運命論なんかじゃなく、もしかしてこれは結構科学的な話なのかも。
科学オンチのくせに科学や数学などそのもののアイディアに惹かれるのは、
「探求」に惹かれるというだけでなく、なんらかの法則めいたもの、
もしくは少なくとも自分の意思だけではないものの存在を自分の中に感じるからなんだろうな。
そしてそれがどこか「自然」と呼応するような気がして、ひきつけられたり恐れたりする。

自然の「ただ在る」ということのすごさ。「すごくない」ということのすごさ。
などと言ってる時点で全くもって”遠い”んだよなぁと思うけど。
あぁ人間であるって面倒。
と思ったり思わなかったり・・・。

9.07.2011

刹那と自然、郊外にて

東京という場所を薄目で眺める、郊外生活にも慣れてきた。
慣れてきたどころか気に入っている。
都心への交通費や時間はかかるし、ちょっと込み入った用事は大概「遠出」を意味するものの、用事を取捨選択している感じは嫌いではない。
誰かとごはんを食べに行く、なんていうちょっとしたことも実は強い意志とお金と時間が必要。
トウキョウのようなメガサイズの街なら、どれだけ中心地に住んでいようと生活がその場所で完結することなど不可能なのだから実際全てのシチュエーションで「意思」とお金と時間が必要なのは同じだ。
それが、郊外にいるとよりはっきり感じられるのが面白い。
どこにいても、会いたい人に会って、したいことをしているのだろうが、よりそれが選択的になる。

先日は最近親しくなった、大好きなアーティストの自宅兼スタジオを訪ねるために西日暮里へ。
共有できる空気のぴりっと感がたまらないジュエリー作家の友人との夕食は阿佐ヶ谷で。
自分の一部でもあるような、そして常に新しいような関係を20年続ける謎の男とぼんやり時間を過ごすために逗子へ。
願い続けるだけではなく、なんでも実現してきたパワフル女代表のような作家仲間がオープンした素敵な空間を見に、こちらもパワフルでカッコよく、ある意味一緒に成長した?ような気分を勝手に持っている別の作家仲間と鵜の木へ。

どれもなんとも普通ながら、なんとも言えない染みいるような気持ちで動いてたなぁと思いだす。
そしてその動きや出会いが大事かどうかは「一生」というスパンじゃないな、と改めて思う。
その瞬間、もしくは500年後、そのどちらか、またはそれは同じことなのかも。
「一生」という動物的限界を下敷きにした「一瞬」の大事さ、はどうもピンとこないけれど、本当に本質的に意味も価値も超越した「刹那」がどうであるか、には強く心ひかれる。
・・・という観点における自然にも強く惹かれる。
ただ、淡々とそれがある、ということ。
それが「すごい」などと思うことが人間なのかぁ、などと読み返すと意味不明な文章になってしまったものの、そう思うのだから仕方ない。ということでPublish!

6.01.2011

J'aime beaucoup la ville!

少しBXLに行っており、半日で見終わると観光客に評判のその街を存分に楽しんできた。
去年に続き、2度目の滞在。
合計で1カ月滞在したが、まだ全然見終わらない!
今回やっと、有名な観光スポットの一つに行ってみたり。

歩きにくい石畳や、ほぼすべての店が閉まる日曜や、それでも営業しているおいしいパン屋さん、清潔で快適だけれどなんだか分かりにくい地下鉄、変わりやすい天気、古いビル、辛抱強くて攻撃的な車の運転。
いろいろな意味で基準や基盤が全く違う社会は面白い。
自分があたりまえだと感じがちな状況がざばーっと流されていくようで。

状況だとか環境によってある程度の価値観や振る舞いが決まるのは仕方がないとしても
その土台が流された後にでもちゃんと立てるのがいいのではないかと思う。
それは最大公約数的になるのではなく、最小公約数的になることなのでは、とも。
基本的なことを思い、基本的なことをやっていれば大体においてそれはどの文化においても基本的だったりする。

なんてことを思ったりしつつ、ラッキーなことに出くわしたヨーロッパツアー中のalva noto + ryuichi sakamotoのライブに没入。
数年前に東京でも見たが、圧巻の一言。
好きだとか泣けるだとか、ではなく別の次元に行くような体験。
見えないものに形を与える、翻訳のような作業。
私が音楽に求めるのはこういうことだな、と思う。
もっといえば音楽に限らずアートには。

という普通の日々。

3.30.2011

グレーです!

3月11日の地震、そして津波。あれからもう3週間ほどが過ぎた。
恐怖と悲しみと驚きと不安に満ちた日々の中、私は引っ越しをしていたりして
身も心もあわただしい毎日だった。
情報とは、知るとは、反応するとは、伝えるとは、恐れるとは、励ますとは、共感するとは、善意とは、悪意とは、いったい何なんだろう。
情報があったから何?知ったから何?知らなかったら何?
どうなるの?などと止めどもなく思い続けた最近。
放射能のことなど、向き合うきっかけになったけれど、みんなが恐れる放射性ヨウ素131は私が2年前に病気の治療ですでに体内に入れた放射線物質。
そういう使い方もされていることやレントゲンや飛行機による被ばく、何より自然被ばくのことを考えても放射性物質自体がソラオソロシイ物質である、というディスコースには同調できない。
ただもちろん、体内に蓄積し、がんを誘発する可能性があるなど、恐ろしい要素があることは知っておかなければ。
でもその点だけを考えたらタバコだって、脂っこい食べ物だって、過労だって、几帳面すぎる性格だって(!)がんの可能性も別の病気による致死の可能性もある。

・・・この話、結論はなくて、つまりそのこと自体が私が言いたいことで、物事には意外に結論がないってこと。
「ただそれはそれなんだ」ということ。
もちろん、原子力に頼る発電や電力に頼る生活自体がいいとは思わない。
今回のことでそれが変わっていくならばそちらに進む心づもりもある。
でも、今の「ざわざわ」した心に支配された報道やつぶやきについては、この日本特有の「グレーな論法」で臨みたいと思うのだ。ただし、はっきりと。
「ええ、グレーです」と言うことで。
全面的な善や全面的な悪という視点で語れないところにこそ真理や個人の居場所があるんじゃないか、と思う。
この、個人という概念のない、生きづらくて居心地のいい日本においては。