5.25.2009

塩になる

自分という存在がどこから始まってどこまで至るのか、考えるとくらくらする。
体の中に納まっているという考えがまあ一般的だろうとは思うけど、どうしてもそう思えない。
経験や「肌」感覚にマッチしない。
では、体の中心から体を突き抜けて、たとえば球状に拡がっているんだろうか。
そういう風に思えなくもない。
ただ、それはあまりに人間中心の考え方のような気もして。
仮説として、何かの「存在」の中を人間が通り過ぎているだけとも言える。だからといって、人間に何も無いということではなく。
私という人間はここにいて、考えたり感情を持ったりしている。それがなんでもないとは思えず。
考えるゆえに我あり、というのとも微妙には違うものの。
いずれにせよ、(肉体があるからこそ存在すると思える、)感情の広がりを考えるとき、Aという人やBという人を見て感じ、判断しているというより、何かを彼らの中に見ている、という感覚のほうが近い。

以前こんなことを考えているときにぴったりだなと思えたアナロジーは塩だった。
いろんな人や情景の中に様々な濃度で溶け、堆積する塩をこそ見ているのではないか。
隣り合う細胞の塩濃度を同一にする浸透膜をそれぞれの存在が否応無く持たされた状態で。(塩の濃度が否応無く調整される)
濃度の違う人に会ったときの圧迫感・被圧迫感はこれかもしれないと思えるし、だから似たような濃度の人には穏やかな気持ちになれるのか、というのも納得できる。
その堆積するイメージと、塩が一つの鉱物である事実も、自分の体への揺らいだ意識と呼応して。
そしていずれは塩そのものになるんじゃないんだろうか??
死んだ後、骨になり、水分を失い、塩になる。
悪くない。