私を「掴みどころが無い」と形容したその人といるのが好きで、「掴もうと」しない態度も好きで、「掴めない」ものだと知っている知性が好きだ。
人は普通だし変わってるし、賢いし馬鹿で、とはいえそのどれもが単なる解釈と評価でしかない、つまり、実体ではない。
「今は」+「そう見える/思う」を交換しながら像をぼんやり見るくらいが関の山と思えるその人の知性には、許容と受容があって、それこそそれは単なる私のその人に対する解釈でしかないので、本人は同意してくれないのかもしれないけど、遠くを見る目と地に生えた力があって真正面からモノを見据えることを可能にする。
おかしな響きだけれども、私をちゃんと馬鹿にしてくれる人は本当に貴重で、私ではなく、行動や行為を純粋に見てくれることで、結果としてああちゃんと私を見てくれているんだな、と感じる。
XXであるこの人がすることはすべてXXである、という分かりやすさは便利ではあっても、一種の断絶でもあり、そこから何も生みはしない。
この種の分かりやすさは保留された理解であって、理解とは根本的に違うということに気づくほうが実は面倒だし、もどかしさや時として痛みも伴うものでもあるけども、これこそが地平に向かうための重要なトークンの一つ。