学生時代、よく手紙を書いていた。
今では信じられないけれど、eメールというものが世間を席巻する前の時代。
私が通っていた大学にはいち早くインターネットが導入されており、メールは毎日使っていたものの、とにかくひたすら文字を書いた。
自分がもがいて拾ってきた心の井戸の中にあった言語を理解する人に出会い、余計に夢中になって拾い、攫い、濾した。
驚くべきことに、言葉は取れば取るほど取れた。
その人とは、同じ授業で毎週会っていたのにも関わらず、毎週10枚以上もの便箋に書きなぐった手紙をひたすら送りあった。
もちろん会えば話す。足りなくて書く。の繰り返し。
溢れて溢れて止まらなかった。
ただ、おかげで他の人には要らぬ迷惑もかけたし、フラストレーションややり場の無い怒りに突き動かされて他人を攻撃もした(!)。
なぜ、彼ひとりしか私の言うことがわからないのか、わからなかったし、困惑していたのだ。
あれから15年以上がたち、今は、大人になるってこういうことか、というような、寛容と、納得と、諦観がある。
彼以外にも伝わる人がいるということ、そして「伝わる」というのが、同じ価値観を持つことを必ずしも意味しないことが分かり、「自由」という概念を含んだあらゆる概念から徐々に解き放たれてきた。
すべて言葉によって。
正確に言うと、言葉という道具を使って探ろうとする振る舞いによって。
「結局は言葉じゃないよね」という言語能力の低さを正当化するゴタクとは形式だけであっても正直向き合いたくないが、結局はもちろん言葉ではない。
言葉は言葉という「在り様」であり、言葉という「視線」だ。
言葉は視るためにあり、在るためにある。
せっかくだから視て、在ろうと思う。