9.07.2011

刹那と自然、郊外にて

東京という場所を薄目で眺める、郊外生活にも慣れてきた。
慣れてきたどころか気に入っている。
都心への交通費や時間はかかるし、ちょっと込み入った用事は大概「遠出」を意味するものの、用事を取捨選択している感じは嫌いではない。
誰かとごはんを食べに行く、なんていうちょっとしたことも実は強い意志とお金と時間が必要。
トウキョウのようなメガサイズの街なら、どれだけ中心地に住んでいようと生活がその場所で完結することなど不可能なのだから実際全てのシチュエーションで「意思」とお金と時間が必要なのは同じだ。
それが、郊外にいるとよりはっきり感じられるのが面白い。
どこにいても、会いたい人に会って、したいことをしているのだろうが、よりそれが選択的になる。

先日は最近親しくなった、大好きなアーティストの自宅兼スタジオを訪ねるために西日暮里へ。
共有できる空気のぴりっと感がたまらないジュエリー作家の友人との夕食は阿佐ヶ谷で。
自分の一部でもあるような、そして常に新しいような関係を20年続ける謎の男とぼんやり時間を過ごすために逗子へ。
願い続けるだけではなく、なんでも実現してきたパワフル女代表のような作家仲間がオープンした素敵な空間を見に、こちらもパワフルでカッコよく、ある意味一緒に成長した?ような気分を勝手に持っている別の作家仲間と鵜の木へ。

どれもなんとも普通ながら、なんとも言えない染みいるような気持ちで動いてたなぁと思いだす。
そしてその動きや出会いが大事かどうかは「一生」というスパンじゃないな、と改めて思う。
その瞬間、もしくは500年後、そのどちらか、またはそれは同じことなのかも。
「一生」という動物的限界を下敷きにした「一瞬」の大事さ、はどうもピンとこないけれど、本当に本質的に意味も価値も超越した「刹那」がどうであるか、には強く心ひかれる。
・・・という観点における自然にも強く惹かれる。
ただ、淡々とそれがある、ということ。
それが「すごい」などと思うことが人間なのかぁ、などと読み返すと意味不明な文章になってしまったものの、そう思うのだから仕方ない。ということでPublish!