8.31.2009
「地図への旅」特別企画x2
今回、ギャラリーみずのそらで企画している「地図への旅」という展覧会で2つ、特別企画も同時進行します。
ぜひ展覧会と一緒にお楽しみください!
・遠藤真紀子さんによる2日間限定カフェ「くろねこかしや」
展覧会期間中の9/12-13だけ、ギャラリーのカフェにて特別メニューがセットで召し上がれます。
甘いものは大好きながら、甘すぎるものがダメだったり、甘くないお菓子が嫌いだったりする、めんどくさい私が選んだお菓子作りのプロの「作品」。
展覧会のテーマにあわせて、オリジナルでメニューを考案してくださいました!
お持ち帰りのお菓子も用意していただきました。
・sane masayukiさん、hofli(津田貴司)さんによるライブパフォーマンス
9/19、19時より展覧会場にて2500円(1ドリンク付き)でライブをしていただきます。
私自身がファンであるお二人に展覧会場で演奏していただけることになりました。
作品にも会場にもぴったりな音で、今からどんなことになるか待ちきれない思いです。
こちらのイベントについては予約を受け付けています。
当日であっても、ギャラリーまでお電話いただけると嬉しいです。
8.23.2009
鉱物
好きだと解っていながら、なぜか遠ざけ、目を背けていたものがある。
それももう限界で、やはりだんだんと近づいてきてしまった。
石だ。鉱石。
正直言って自然物の中で最も美しいと思う。
水晶や石膏など、特に透明な石には我を忘れるほど見入ってしまうし、景色も、草原や海原よりも、岩がむき出しになった絶壁や崖や巨岩に魅かれる。
数年前にハワイの溶岩を見てからは世界中の溶岩が見たくてたまらない。
ガラスも固体が常態ではないとはいえ、一種の鉱物だ。
きっと変形できる鉱物だからガラスにも触りたかったのかも。
陶土に興味が無かったのは、可塑性が私をひきつけたわけではないという証明。
そんなことを考えたか考えずか、私が手にした石はただ静かに光る。
今までも、これからも。
私なんて馬鹿馬鹿しい、といわんばかりに澄ました顔で。
それももう限界で、やはりだんだんと近づいてきてしまった。
石だ。鉱石。
正直言って自然物の中で最も美しいと思う。
水晶や石膏など、特に透明な石には我を忘れるほど見入ってしまうし、景色も、草原や海原よりも、岩がむき出しになった絶壁や崖や巨岩に魅かれる。
数年前にハワイの溶岩を見てからは世界中の溶岩が見たくてたまらない。
ガラスも固体が常態ではないとはいえ、一種の鉱物だ。
きっと変形できる鉱物だからガラスにも触りたかったのかも。
陶土に興味が無かったのは、可塑性が私をひきつけたわけではないという証明。
そんなことを考えたか考えずか、私が手にした石はただ静かに光る。
今までも、これからも。
私なんて馬鹿馬鹿しい、といわんばかりに澄ました顔で。
出身地と音符
勝手なリズムで生きていて、勝手に自分だけの単語や略語を作り出す人たち。
新しい感覚を得るためではなく、ぴったりな感覚を得るために。そしていろんなことを茶化して線引きを曖昧にするために。
もっと言うと、もともと無かったところに引かれた境界線を無化するために。
どこか周りとフィットせず、自分が確かだと感じる磁場だけを踏みしめて、言葉さえも(外国語ではなく)「異国語」を話す。
そんな人たちに共感するわけだけど、よく、”出身地”が同じ/近いのでは、と思う。
生まれた、とか、育った、とかではなく、精神的な出自としての「場所」。
私の頭の中にある地図は実はそういう地図だ。
それは物理的な距離や人種や言語の違いはあまり問題とはされない、多層的で、空想的な地図。
先日読んだ本で「地図」という概念が無い国のことが描かれていて、地図を知る国から来た人々がその国の人に地図について訪ねると、その国の人たちは「それは楽譜のことですか?」と応えていた。
私の頭の中にそれらしき旋律はないけれど、その勝手な解釈については共感した。
「出身地」は「音符の大きさ」で決まる、とか、そんな出鱈目しか実際信じたくないものだ。
新しい感覚を得るためではなく、ぴったりな感覚を得るために。そしていろんなことを茶化して線引きを曖昧にするために。
もっと言うと、もともと無かったところに引かれた境界線を無化するために。
どこか周りとフィットせず、自分が確かだと感じる磁場だけを踏みしめて、言葉さえも(外国語ではなく)「異国語」を話す。
そんな人たちに共感するわけだけど、よく、”出身地”が同じ/近いのでは、と思う。
生まれた、とか、育った、とかではなく、精神的な出自としての「場所」。
私の頭の中にある地図は実はそういう地図だ。
それは物理的な距離や人種や言語の違いはあまり問題とはされない、多層的で、空想的な地図。
先日読んだ本で「地図」という概念が無い国のことが描かれていて、地図を知る国から来た人々がその国の人に地図について訪ねると、その国の人たちは「それは楽譜のことですか?」と応えていた。
私の頭の中にそれらしき旋律はないけれど、その勝手な解釈については共感した。
「出身地」は「音符の大きさ」で決まる、とか、そんな出鱈目しか実際信じたくないものだ。
8.10.2009
「地図への旅」展覧会告知
展覧会を企画しています。私も出品します。
「地図への旅」
位置や距離を示す俯瞰図としての地図を見る行為は、自分がどこにいるか、どこに行こうとしているかを「知る」こと、「わかろうとすること」のメタファーではないでしょうか。
いろいろな要素が複雑に絡み合いながらも単純に純然と世界が存在していることを理解しながら、認めながら、俯瞰図を俯瞰し、新たな地図を作る。
そんな思いから、様々な素材やメディアを使って制作・発表を続ける作家とともに、「地図への旅」へ出ようと思い立ちました。西荻窪の住宅街にひっそりと佇むギャラリー+カフェみずのそらでゆっくりと寛ぎながら、作家たちの地図への旅を眺め、感じ、参加してみませんか。
日時:9/5(土)~9/20(日)12:00-19:00(最終日は17:00まで)
会場:ギャラリーみずのそら http://www.mizunosora.com/
住所:杉並区西荻北2-25-2
Tel:03-3390-7590
展示作家:勝正光、四宮優、曽田朋子、長沢暁、西尾千尋、梅田香奈

曽田朋子

長沢暁

西尾千尋

梅田香奈
同時開催イベント:
・9/5(土)18:00ごろ~オープニングパーティー
・9/12(土)-13(日)くろねこかしや(遠藤真紀子さん)による2日間限定カフェ
・9/19(土)19:00~Sane Masayukiさん、Hofli(津田貴司)さんによるライブ
(1ドリンクつき2500円。当日は予約なしでもご入場いただけますが、ギャラリーまでご予約いただけると助かります。)
ご高覧いただけますと幸いです。
「地図への旅」
位置や距離を示す俯瞰図としての地図を見る行為は、自分がどこにいるか、どこに行こうとしているかを「知る」こと、「わかろうとすること」のメタファーではないでしょうか。
いろいろな要素が複雑に絡み合いながらも単純に純然と世界が存在していることを理解しながら、認めながら、俯瞰図を俯瞰し、新たな地図を作る。
そんな思いから、様々な素材やメディアを使って制作・発表を続ける作家とともに、「地図への旅」へ出ようと思い立ちました。西荻窪の住宅街にひっそりと佇むギャラリー+カフェみずのそらでゆっくりと寛ぎながら、作家たちの地図への旅を眺め、感じ、参加してみませんか。
日時:9/5(土)~9/20(日)12:00-19:00(最終日は17:00まで)
会場:ギャラリーみずのそら http://www.mizunosora.com/
住所:杉並区西荻北2-25-2
Tel:03-3390-7590
展示作家:勝正光、四宮優、曽田朋子、長沢暁、西尾千尋、梅田香奈
勝正光

曽田朋子

長沢暁

西尾千尋
梅田香奈
同時開催イベント:
・9/5(土)18:00ごろ~オープニングパーティー
・9/12(土)-13(日)くろねこかしや(遠藤真紀子さん)による2日間限定カフェ
・9/19(土)19:00~Sane Masayukiさん、Hofli(津田貴司)さんによるライブ
(1ドリンクつき2500円。当日は予約なしでもご入場いただけますが、ギャラリーまでご予約いただけると助かります。)
ご高覧いただけますと幸いです。
方向感覚
人と会うインターバルの長さが会話から日常を濾すことが割と好きで、日常が積もるチリとなり、単なるアップデートの対象となる感覚が好きだ。
内容、人によっては伝える必要もなく埋もれていくチリの中から、現在の自分を形成するにあたって必要であったことを抜き出す作業はまるで記録映像を眺めるかのように客観的かつ直截的。
これができる関係の人が結構いる、というのは精神衛生の観点からいっても喜ばしい。
感覚、感情そのままに瞬間を過ごして居ればこそ、それを振り返る時間が必要で、彼らに会い、話すことでやっと「自分」から出る気がする。
年齢も性別も関係の時間的長さも少しも重要ではなく、無我でも自我でもない場所にただただ「いる」ことができる。
最近気づいたのだけど、そういう人たちと一緒にいると私の場合、極端に方向感覚が弱くなってしまう。普段から結構弱いので気づかなかったけど、ちょっと可笑しいくらい迷ったり、大事なサインを見逃したりする。意識が「移動」と結びついていないのと、単純に注意力が分割できないんだろうけど。
西新宿や西荻で迷った人、そういうわけなんです。
内容、人によっては伝える必要もなく埋もれていくチリの中から、現在の自分を形成するにあたって必要であったことを抜き出す作業はまるで記録映像を眺めるかのように客観的かつ直截的。
これができる関係の人が結構いる、というのは精神衛生の観点からいっても喜ばしい。
感覚、感情そのままに瞬間を過ごして居ればこそ、それを振り返る時間が必要で、彼らに会い、話すことでやっと「自分」から出る気がする。
年齢も性別も関係の時間的長さも少しも重要ではなく、無我でも自我でもない場所にただただ「いる」ことができる。
最近気づいたのだけど、そういう人たちと一緒にいると私の場合、極端に方向感覚が弱くなってしまう。普段から結構弱いので気づかなかったけど、ちょっと可笑しいくらい迷ったり、大事なサインを見逃したりする。意識が「移動」と結びついていないのと、単純に注意力が分割できないんだろうけど。
西新宿や西荻で迷った人、そういうわけなんです。
8.05.2009
”人間は考える管である”
ゆっくりとだが、こうなればいいなぁ、こうしてみたいなぁと口に出したことが現実になってきている。
言霊とかアファーメーションとかいろいろ言われ方はあるけども、私としては、ある種の波動のようなものが自分の体を通り抜ける過程での一つの効果では、と思っている。
先日、絶妙なタイミングで動的平衡という概念についての本を読んだことも影響しているかもしれない。
生命活動そのものが、移り変わりながらそれ自体を維持するシステムであり、効果であるという考え。
ミクロな生物学の世界においては、身体はタンパク質の「淀み」である、という表現もあり、自分が日ごろ感じている「感じ」があまりにぴたっと学術的に表現されているのがもはや可笑しかった。
体や概念や物体の「切れ目」「境目」「輪郭」が基本的に感覚としてわからない私としては、その本に出てきた、「生物学的には胃の中も”体外”である(胃が分解吸収される以前の状態の貯蔵庫であり、内部としての体に取り込まれていない)」という表現や人間とチクワのトポロジー(!)(人間は口から肛門に至る一本の”外部としての管”に貫かれた存在である)にもいたく感銘を受けた。
ともあれ、結局、「希望」や「想像」も何かが管としての/分子の淀みとしての自分に取り込まれた結果として発生し、そののち周りの分子や波動やらを取り込んだり集めたりした効果として、それが「そうなる」のは大局的に考えればいたって自然な営みのようにも思えるのだ。
極私的には「奇跡」という感覚や「感謝」の気持はもちろんあるし、決して軽視していないけれど、それらすら「ただある」ことの過程で生成される状況なのかもしれない。
で、何が言いたいんだっけ、と考えると、結局どこまで透明になれるのか、透明な淀みになれるのか、ということなのかもしれないなと思う。
輪郭もすべて消し去って、自由に内部と外部が交わるような淀み。
まだまだ黒々とした淀みである私としては先の長い話ではあるが、そう願う・願えることはそうなれることの側面であるとするなら、きっといずれ透き通るのだろう。
その黒さにおいて迷惑をかけられている周りの人たちには、今しばらく辛抱してもらうしかない。
どうぞよろしく。
言霊とかアファーメーションとかいろいろ言われ方はあるけども、私としては、ある種の波動のようなものが自分の体を通り抜ける過程での一つの効果では、と思っている。
先日、絶妙なタイミングで動的平衡という概念についての本を読んだことも影響しているかもしれない。
生命活動そのものが、移り変わりながらそれ自体を維持するシステムであり、効果であるという考え。
ミクロな生物学の世界においては、身体はタンパク質の「淀み」である、という表現もあり、自分が日ごろ感じている「感じ」があまりにぴたっと学術的に表現されているのがもはや可笑しかった。
体や概念や物体の「切れ目」「境目」「輪郭」が基本的に感覚としてわからない私としては、その本に出てきた、「生物学的には胃の中も”体外”である(胃が分解吸収される以前の状態の貯蔵庫であり、内部としての体に取り込まれていない)」という表現や人間とチクワのトポロジー(!)(人間は口から肛門に至る一本の”外部としての管”に貫かれた存在である)にもいたく感銘を受けた。
ともあれ、結局、「希望」や「想像」も何かが管としての/分子の淀みとしての自分に取り込まれた結果として発生し、そののち周りの分子や波動やらを取り込んだり集めたりした効果として、それが「そうなる」のは大局的に考えればいたって自然な営みのようにも思えるのだ。
極私的には「奇跡」という感覚や「感謝」の気持はもちろんあるし、決して軽視していないけれど、それらすら「ただある」ことの過程で生成される状況なのかもしれない。
で、何が言いたいんだっけ、と考えると、結局どこまで透明になれるのか、透明な淀みになれるのか、ということなのかもしれないなと思う。
輪郭もすべて消し去って、自由に内部と外部が交わるような淀み。
まだまだ黒々とした淀みである私としては先の長い話ではあるが、そう願う・願えることはそうなれることの側面であるとするなら、きっといずれ透き通るのだろう。
その黒さにおいて迷惑をかけられている周りの人たちには、今しばらく辛抱してもらうしかない。
どうぞよろしく。
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