この世に偶然が無いとして、単に人間が理由を知らないだけだとしたら、近くにいて、言葉を交わして、テーブルを囲む相手の言葉はなおさら聞くべき。
で、目的地の遠くの光を見ただけで「もう着いた」と言ってしまう、という楽観主義の彼女とはどこで会ったんだっけ?
久しぶりに気が向いて電話をしたその日、彼女は予定が二つあったのが、私の電話の前に二つともなんだかんだで無くなり、家に帰ろうとしていた。
その日の午後、私がどうしてるのか、と考えていた、とも。
私はといえば、パッと思いついて2秒で電話しただけ。
こういうことがもう「当たり前」といえるほどに多発していて不思議と思うのもやめたいのだが、なぜかまだやめられない。
5.30.2009
5.27.2009
憧れのクラブ
無為な時間を過ごせないなら、人と会うのをためらってしまうことがある。
もし3時間しかない、とわかっているとしたら「会う時間がない」と捉える。
会った時、生産的なことを効率的に行うこと以外できないとしたら、なんだか逆に退屈してしまう。
なんとなく、の時間をなんとなく過ごすことが至上の贅沢だと思うし、その贅沢の中にしかないものが、私がほしいものの一つなんだと思う。
思い出すのは、訳あって私が心で「大使」と呼ぶある人のこと。
同じ公募展に出していたことから知り合って、3度目に会ったのはすでに私の家で朝の6時までしゃべり倒した、その彼女は「なんとなく」の大家であるように思えた。
彼女の若いころの遊びの話を聞くだけで、どんな出来合いの物語よりも、面白く、濃厚で、刺激的だった。
それは他愛もないおしゃべりだったり、何かを思いこむゲームだったりしただけだったのにも関わらず、「なんとなく」がどこまで滑って行くのかという明らかな思考実験なのだ。
私は普段ゲームにはあまり興味がないのだけれど、彼女のゲームや冗談は、彼女の体の中心にあるというか、彼女自身のありかたと関わっているというか、とにかく力強いせいか、惹きつけられてやまない。
彼女とその友達たちにしか通じない、謎の「歌舞伎クラブ」、入りたかったなあ。
もし3時間しかない、とわかっているとしたら「会う時間がない」と捉える。
会った時、生産的なことを効率的に行うこと以外できないとしたら、なんだか逆に退屈してしまう。
なんとなく、の時間をなんとなく過ごすことが至上の贅沢だと思うし、その贅沢の中にしかないものが、私がほしいものの一つなんだと思う。
思い出すのは、訳あって私が心で「大使」と呼ぶある人のこと。
同じ公募展に出していたことから知り合って、3度目に会ったのはすでに私の家で朝の6時までしゃべり倒した、その彼女は「なんとなく」の大家であるように思えた。
彼女の若いころの遊びの話を聞くだけで、どんな出来合いの物語よりも、面白く、濃厚で、刺激的だった。
それは他愛もないおしゃべりだったり、何かを思いこむゲームだったりしただけだったのにも関わらず、「なんとなく」がどこまで滑って行くのかという明らかな思考実験なのだ。
私は普段ゲームにはあまり興味がないのだけれど、彼女のゲームや冗談は、彼女の体の中心にあるというか、彼女自身のありかたと関わっているというか、とにかく力強いせいか、惹きつけられてやまない。
彼女とその友達たちにしか通じない、謎の「歌舞伎クラブ」、入りたかったなあ。
5.25.2009
塩になる
自分という存在がどこから始まってどこまで至るのか、考えるとくらくらする。
体の中に納まっているという考えがまあ一般的だろうとは思うけど、どうしてもそう思えない。
経験や「肌」感覚にマッチしない。
では、体の中心から体を突き抜けて、たとえば球状に拡がっているんだろうか。
そういう風に思えなくもない。
ただ、それはあまりに人間中心の考え方のような気もして。
仮説として、何かの「存在」の中を人間が通り過ぎているだけとも言える。だからといって、人間に何も無いということではなく。
私という人間はここにいて、考えたり感情を持ったりしている。それがなんでもないとは思えず。
考えるゆえに我あり、というのとも微妙には違うものの。
いずれにせよ、(肉体があるからこそ存在すると思える、)感情の広がりを考えるとき、Aという人やBという人を見て感じ、判断しているというより、何かを彼らの中に見ている、という感覚のほうが近い。
以前こんなことを考えているときにぴったりだなと思えたアナロジーは塩だった。
いろんな人や情景の中に様々な濃度で溶け、堆積する塩をこそ見ているのではないか。
隣り合う細胞の塩濃度を同一にする浸透膜をそれぞれの存在が否応無く持たされた状態で。(塩の濃度が否応無く調整される)
濃度の違う人に会ったときの圧迫感・被圧迫感はこれかもしれないと思えるし、だから似たような濃度の人には穏やかな気持ちになれるのか、というのも納得できる。
その堆積するイメージと、塩が一つの鉱物である事実も、自分の体への揺らいだ意識と呼応して。
そしていずれは塩そのものになるんじゃないんだろうか??
死んだ後、骨になり、水分を失い、塩になる。
悪くない。
体の中に納まっているという考えがまあ一般的だろうとは思うけど、どうしてもそう思えない。
経験や「肌」感覚にマッチしない。
では、体の中心から体を突き抜けて、たとえば球状に拡がっているんだろうか。
そういう風に思えなくもない。
ただ、それはあまりに人間中心の考え方のような気もして。
仮説として、何かの「存在」の中を人間が通り過ぎているだけとも言える。だからといって、人間に何も無いということではなく。
私という人間はここにいて、考えたり感情を持ったりしている。それがなんでもないとは思えず。
考えるゆえに我あり、というのとも微妙には違うものの。
いずれにせよ、(肉体があるからこそ存在すると思える、)感情の広がりを考えるとき、Aという人やBという人を見て感じ、判断しているというより、何かを彼らの中に見ている、という感覚のほうが近い。
以前こんなことを考えているときにぴったりだなと思えたアナロジーは塩だった。
いろんな人や情景の中に様々な濃度で溶け、堆積する塩をこそ見ているのではないか。
隣り合う細胞の塩濃度を同一にする浸透膜をそれぞれの存在が否応無く持たされた状態で。(塩の濃度が否応無く調整される)
濃度の違う人に会ったときの圧迫感・被圧迫感はこれかもしれないと思えるし、だから似たような濃度の人には穏やかな気持ちになれるのか、というのも納得できる。
その堆積するイメージと、塩が一つの鉱物である事実も、自分の体への揺らいだ意識と呼応して。
そしていずれは塩そのものになるんじゃないんだろうか??
死んだ後、骨になり、水分を失い、塩になる。
悪くない。
グレーに尽くす
色の話といえば、色の違いが見えすぎて、あたかも色の違いが見えていないかのように見える彼のことを思う。
黒からグレー、という狭いグラデーションの世界に暮らす彼は、実に細やかな密やかなグレーの差もそれぞれを愛す、その態度が、なんとも献身的でなんとも可笑しくて。
とはいえ私もそのグラデーションを含む紫からチャコールグレーまでのグラデーションをこよなく愛し、惑わされているので他人のことは言えないし笑えない。
ある人にとってはどの色も同じだし、別の人にとってはまったく違う。
結局私は、同じ色が見分けられることによって見えてくる何かが見たいんだろうなと思う。
土の味や硬さや密度の違いをミミズ同士語れたらそれでいいのかも。
空の話になんて興味ない。
黒からグレー、という狭いグラデーションの世界に暮らす彼は、実に細やかな密やかなグレーの差もそれぞれを愛す、その態度が、なんとも献身的でなんとも可笑しくて。
とはいえ私もそのグラデーションを含む紫からチャコールグレーまでのグラデーションをこよなく愛し、惑わされているので他人のことは言えないし笑えない。
ある人にとってはどの色も同じだし、別の人にとってはまったく違う。
結局私は、同じ色が見分けられることによって見えてくる何かが見たいんだろうなと思う。
土の味や硬さや密度の違いをミミズ同士語れたらそれでいいのかも。
空の話になんて興味ない。
5.23.2009
色覚異常
誰でも鋭い感性を持つ領域があるとして、それが他人や世の中と呼応するかがある種その人の社会的価値や位置を決めるんだろうと思える。
虫の声を聞き分けられる人は人の顔を覚えるのが苦手かもれないし、計算の早い人は食べ物の味の差がわからないかもしれない、ということに始まって。
その領域が自分とまったく重ならない人は、すべて重なっている人と同じくらい稀なのか、どうなのか、よくわからない。
虫の声のような全員が通る道に必ずしもあるわけでもない領域もあれば、食べ物やセックスなど、誰もが通過する道路沿いの能力の人もいる。
自分について考えたとき、私の領域はどこか中空にある。浮かんでいる。
たまには地に足着いた能力を発揮することもあるけれど(?)。
ともあれ、それは、色弱が普通より色認識能力が低いことを意味するのではなく、色覚が「単に違う」のに似ている。
(「普通」の目の人には見分けにくい色が見分けやすい、とか)
きっと私はメンタルな色弱なんだと思う。
多くの人にとって差が重要なものの違いが気にならないどころかよく見えてもいない。
一方で殆どの人には一色に見える色の何十ものバリエーションの差が気になって仕方が無い。
そう考えるとどうしてこんなに自分が他人や他人といることに飽きっぽいのかが納得できる。
言葉や行為やいろいろ。
単に見えていないから理解も共感もできず、空を飛ぶ素晴らしさを語る鳥の話を上の空で聞くみみずのような気持ちになってしまう。
(「土、おいしいな♪」とか。)
虫の声を聞き分けられる人は人の顔を覚えるのが苦手かもれないし、計算の早い人は食べ物の味の差がわからないかもしれない、ということに始まって。
その領域が自分とまったく重ならない人は、すべて重なっている人と同じくらい稀なのか、どうなのか、よくわからない。
虫の声のような全員が通る道に必ずしもあるわけでもない領域もあれば、食べ物やセックスなど、誰もが通過する道路沿いの能力の人もいる。
自分について考えたとき、私の領域はどこか中空にある。浮かんでいる。
たまには地に足着いた能力を発揮することもあるけれど(?)。
ともあれ、それは、色弱が普通より色認識能力が低いことを意味するのではなく、色覚が「単に違う」のに似ている。
(「普通」の目の人には見分けにくい色が見分けやすい、とか)
きっと私はメンタルな色弱なんだと思う。
多くの人にとって差が重要なものの違いが気にならないどころかよく見えてもいない。
一方で殆どの人には一色に見える色の何十ものバリエーションの差が気になって仕方が無い。
そう考えるとどうしてこんなに自分が他人や他人といることに飽きっぽいのかが納得できる。
言葉や行為やいろいろ。
単に見えていないから理解も共感もできず、空を飛ぶ素晴らしさを語る鳥の話を上の空で聞くみみずのような気持ちになってしまう。
(「土、おいしいな♪」とか。)
5.22.2009
ソリトン
多くの小さなピースからなる長い、または、大きなピースを作ってみたいとずっと思っている。
繰り返しのリズムによる、全体のリズム、出来上がるまではXX個だったパーツが出来上がると一個になって姿を消す様子にどこか心ひかれるのだ。
それはどこか部屋に似ている。
一つ一つ買い集めたもの、作ったもの、使い慣れたもの、見慣れたものが、渾然となって一つの部屋という全体、一個、になる。
部屋の場合は個別のパーツの見た目は(ソファーとネックレスのように)全く違うことも多いが、それに対する感情は似通ったリズムを持っている。
そしてそのリズムがうねりとなって何かが立ち現われる。
ここで難しいのは、現れて・顕れてくるリズムはどこまで意識できるのかということ。
XXにしたい・しようと思うことによって、「なっていく」ことの許容が阻害されることは言うに及ばず(XXっぽくしたい、と思って作られた部屋には「XXっぽくしようと思って作った」匂いしかしないものだ)、意思と意識はどこまでも交じわらない。
何かを成し遂げるには意思は大事かもしれないけれど、私にはどうもそのへんがよくわからないし、うまく意思が持てない。
意思が、限定的で非包括的な認識のありよう、またはその表れだと思ってしまうからかもしれない。
結局、観察と解釈しか自分にはできないのかも、とも思う。
結局、「水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎない」というユングに共鳴したりもして。
いまだ色々と身体にとらわれ、ジタバタもしつつ、共時的に偏在することを私はきっと志向している(意識の意識として?)。
その過程でどんどん頭が悪くなるのも是としながら。
で、どっちに行ったらいいんだっけ?(ほんと単なる馬鹿)
繰り返しのリズムによる、全体のリズム、出来上がるまではXX個だったパーツが出来上がると一個になって姿を消す様子にどこか心ひかれるのだ。
それはどこか部屋に似ている。
一つ一つ買い集めたもの、作ったもの、使い慣れたもの、見慣れたものが、渾然となって一つの部屋という全体、一個、になる。
部屋の場合は個別のパーツの見た目は(ソファーとネックレスのように)全く違うことも多いが、それに対する感情は似通ったリズムを持っている。
そしてそのリズムがうねりとなって何かが立ち現われる。
ここで難しいのは、現れて・顕れてくるリズムはどこまで意識できるのかということ。
XXにしたい・しようと思うことによって、「なっていく」ことの許容が阻害されることは言うに及ばず(XXっぽくしたい、と思って作られた部屋には「XXっぽくしようと思って作った」匂いしかしないものだ)、意思と意識はどこまでも交じわらない。
何かを成し遂げるには意思は大事かもしれないけれど、私にはどうもそのへんがよくわからないし、うまく意思が持てない。
意思が、限定的で非包括的な認識のありよう、またはその表れだと思ってしまうからかもしれない。
結局、観察と解釈しか自分にはできないのかも、とも思う。
結局、「水面に現れるソリトンが独立した個体のように見えながらも実は水が非線形的に形を結んだものに過ぎない」というユングに共鳴したりもして。
いまだ色々と身体にとらわれ、ジタバタもしつつ、共時的に偏在することを私はきっと志向している(意識の意識として?)。
その過程でどんどん頭が悪くなるのも是としながら。
で、どっちに行ったらいいんだっけ?(ほんと単なる馬鹿)
5.20.2009
エクササイズ
友人に教えてもらったクリエイティブエクササイズ。これがはまる。
用意するもの:
・適当な大きさの原画。絵(のコピーなど)が望ましい。
・雑誌(写真がたくさん載っているものが望ましい。)
・のり、はさみ、クレヨンなど自由に
作業:
・雑誌から好きなように”テクスチャーやパターンとして”(絵柄としてではなく)写真を切り取る。文字は不可。
・それを原画に貼る。
・必要であればクレヨンなどで着色してもよい。
・必要なところだけ作業し、いいと思えたら終わり。
考え方:
・誰かの家に自分の私物を持ち込むかのように、もともとあったものやイメージと戯れる。(他人の家を自分の家にする試みではない)
・自分一人ができることというより、リズムやインタラクションを感じる。
用意するもの:
・適当な大きさの原画。絵(のコピーなど)が望ましい。
・雑誌(写真がたくさん載っているものが望ましい。)
・のり、はさみ、クレヨンなど自由に
作業:
・雑誌から好きなように”テクスチャーやパターンとして”(絵柄としてではなく)写真を切り取る。文字は不可。
・それを原画に貼る。
・必要であればクレヨンなどで着色してもよい。
・必要なところだけ作業し、いいと思えたら終わり。
考え方:
・誰かの家に自分の私物を持ち込むかのように、もともとあったものやイメージと戯れる。(他人の家を自分の家にする試みではない)
・自分一人ができることというより、リズムやインタラクションを感じる。
途中で交換したり、さかさまにしてみたり、いろいろなルールで遊べる。
終わったら見せ合って感想を言い合う、それだけだけども、頭の凝り固まったところが刺激される。
特に、私は普段制作するときに、何をどうやって「引くか」を考えることが多く、コラージュのように何をどのように「足すか」ということを考える習慣がない。
どちらかというとそういう作業を避けているといってもいい。
それに、ミニマムなものを作りたいがために、それとの対比という意味もあり、ある程度の「支配力」のような力を持たせたいとすら思って作ることが多い。
だからこそ、物や状況との複雑なインタラクションに弱い面があって、それをこのエクササイズが補強するような気さえする。
これを例の「無人島」でやっていたわけだけど、一緒にいた二人の才気溢れる自由人たちが紙を裂き、色を付けていくたびに、さざ波のような刺激があって、頭の芯が熱くなり、感覚が鋭くなっていくのを感じた。
たまに交わす、何気ない会話も、洞窟の奥から聞こえるような神秘的な響きを持ち、完全に脳内が活性していく不思議。
興味のある方は是非。

5.19.2009
北極
方位は不思議だ。相対的でありながら、時として絶対的でもある。
ある地点から見ればある地点は確実に北にあったとしても、別の地点から見たらそれは南東かも、東かもしれない。
それは「指し示す」という方位の本質として理解できるとして、人間と地球のサイズの違いからなのか、動きの不自由さからなのか、日常には絶対的な方位のほうが肌になじむということに気づくとき、どこか足元が揺らぐような感覚になる。
南国、東新宿、北九州、西欧など、方位を関した地名や地域名は”洋の「東西」を問わず”、世界中に分布している。
回転体である地球に絶対的な東西は無いとして、絶対的な南北はあると信じられている。
まぁ実際にあるといえる。
北極星の方向、地軸のてっぺん、が絶対的な「北」で「真北」と呼ばれる。
問題は、北が真北だけでは済まされないところ。
方位磁針を世界中の人が持って北に向かって行ったとしたらたどり着く、「磁北」という北極もあるためだ。
この二点間の距離は「こことあそこ」と言えるような距離ではなく、数百キロ単位で果てしなく離れている。
これは、地球が巨大な磁石であること、地球が自転していることによって起こる。
この事実は、事実だということによって同時に謎めいている。
それはまるで、三角形の内角の和が、地球のような大きな球状物体に当てはめると180度を超えてしまうのに似ていて、厳然と私たちを惑わすのだ(!)。
(赤道と緯度線と地軸はそれぞれ90度で互いに接している巨大な三角形だが、足すと270度になる。)
この、「絶対」なんだか「相対」なんだか、お互いをキャンセルしあうような関係性になぜか惹かれる。
意味があるのか、意味がないのか、意味とはなんなのか。
必ず死んでいくのに次々生まれてくる命の不思議さにも似て、正反対の形容詞によってのみ正確に描写される事象。
現在、そんなテーマの展覧会、「地図の地図展(仮称)」を2009年9月5日から約3週間、西荻窪のギャラリーみずのそらにて企画中。
はてこの捕まえた魚をどう料理しようか。
ある地点から見ればある地点は確実に北にあったとしても、別の地点から見たらそれは南東かも、東かもしれない。
それは「指し示す」という方位の本質として理解できるとして、人間と地球のサイズの違いからなのか、動きの不自由さからなのか、日常には絶対的な方位のほうが肌になじむということに気づくとき、どこか足元が揺らぐような感覚になる。
南国、東新宿、北九州、西欧など、方位を関した地名や地域名は”洋の「東西」を問わず”、世界中に分布している。
回転体である地球に絶対的な東西は無いとして、絶対的な南北はあると信じられている。
まぁ実際にあるといえる。
北極星の方向、地軸のてっぺん、が絶対的な「北」で「真北」と呼ばれる。
問題は、北が真北だけでは済まされないところ。
方位磁針を世界中の人が持って北に向かって行ったとしたらたどり着く、「磁北」という北極もあるためだ。
この二点間の距離は「こことあそこ」と言えるような距離ではなく、数百キロ単位で果てしなく離れている。
これは、地球が巨大な磁石であること、地球が自転していることによって起こる。
この事実は、事実だということによって同時に謎めいている。
それはまるで、三角形の内角の和が、地球のような大きな球状物体に当てはめると180度を超えてしまうのに似ていて、厳然と私たちを惑わすのだ(!)。
(赤道と緯度線と地軸はそれぞれ90度で互いに接している巨大な三角形だが、足すと270度になる。)
この、「絶対」なんだか「相対」なんだか、お互いをキャンセルしあうような関係性になぜか惹かれる。
意味があるのか、意味がないのか、意味とはなんなのか。
必ず死んでいくのに次々生まれてくる命の不思議さにも似て、正反対の形容詞によってのみ正確に描写される事象。
現在、そんなテーマの展覧会、「地図の地図展(仮称)」を2009年9月5日から約3週間、西荻窪のギャラリーみずのそらにて企画中。
はてこの捕まえた魚をどう料理しようか。
5.18.2009
無人島の家
5.17.2009
ティラミス
「待つ」ということを欲するときがある。
ただなんとなくややこしいのが、来るべきことや行動そのものが欲しいわけではないということ。
とはいえ対象が無ければ待つことも出来ないわけで、それを「手に入れる」ことが欲しくないということでもない。
それはあくまでも副次的な欲求なので、レストランで食べたい料理を注文するようなわけにもいかず。
言うならばデザートを食べるためだけに食べたくも無いコースを食べたいといったところ。
そしてコースを飛ばしたり、どのデザートが欲しいかを聞かれると食べたくなくなってしまうへそ曲がり。
ティラミスが欲しいだけなんだけどな、なんて思えたらなんて楽なんだろう。
ただなんとなくややこしいのが、来るべきことや行動そのものが欲しいわけではないということ。
とはいえ対象が無ければ待つことも出来ないわけで、それを「手に入れる」ことが欲しくないということでもない。
それはあくまでも副次的な欲求なので、レストランで食べたい料理を注文するようなわけにもいかず。
言うならばデザートを食べるためだけに食べたくも無いコースを食べたいといったところ。
そしてコースを飛ばしたり、どのデザートが欲しいかを聞かれると食べたくなくなってしまうへそ曲がり。
ティラミスが欲しいだけなんだけどな、なんて思えたらなんて楽なんだろう。
5.15.2009
組成
昔読んだ漫画で、いまだに思い出しては笑ってしまうものがある。
ストーリーではなく、
「新しいひらがなを発明したよ。ほら、*(その文字)」
「どうやって読むの?」
「*(その文字)」
というだけのやりとりで、ばかばかしくもハッとさせられる。普段、文字が書かれている紙やスクリーンを眺めてはそれを無意識に音声化しているけど、その自動化された作業に何かが挟まれたような感じ。
メスを入れる、というほどではないけども、ティッシュを挟む、くらいの。
漢字を扱う日本人として、読めない文字自体には慣れていながらも(これがアルファベット言語の人にはなかなか理解しづらい:自分の言語に読めない文字がある?!と)、頭に音が鳴らないひらがななんて!とニヤッとしてしまう。
こうやって思考が分断されて初めて思考の流れが見える、というのは不思議で、面白くて、根が深い話。
考えてみると、「違和感」も思考の分断の一つだ。
当たり前に通用しているロジックの展開自体に疑問を持って初めて違和感を感じ、ロジックの存在を知る。
それ以外に本当に知る方法はないのか、と空恐ろしくなるが、子供のころに誰しもがある、自分だけが信じていたことが全く事実無根だったという経験を考えるだに、本当の意味ではそれでしかないような気もする。(ちなみに私は「右利きの人は右目が良く、左目が良くない」と9歳まで信じていた)
実際、極端な話、良くも悪くも違和感を感じないで過ぎる一日はあまりに少なく、良くも悪くも一つ一つ、新しいロジックを知り、少しずつ自分の組成を知る。
ストーリーではなく、
「新しいひらがなを発明したよ。ほら、*(その文字)」
「どうやって読むの?」
「*(その文字)」
というだけのやりとりで、ばかばかしくもハッとさせられる。普段、文字が書かれている紙やスクリーンを眺めてはそれを無意識に音声化しているけど、その自動化された作業に何かが挟まれたような感じ。
メスを入れる、というほどではないけども、ティッシュを挟む、くらいの。
漢字を扱う日本人として、読めない文字自体には慣れていながらも(これがアルファベット言語の人にはなかなか理解しづらい:自分の言語に読めない文字がある?!と)、頭に音が鳴らないひらがななんて!とニヤッとしてしまう。
こうやって思考が分断されて初めて思考の流れが見える、というのは不思議で、面白くて、根が深い話。
考えてみると、「違和感」も思考の分断の一つだ。
当たり前に通用しているロジックの展開自体に疑問を持って初めて違和感を感じ、ロジックの存在を知る。
それ以外に本当に知る方法はないのか、と空恐ろしくなるが、子供のころに誰しもがある、自分だけが信じていたことが全く事実無根だったという経験を考えるだに、本当の意味ではそれでしかないような気もする。(ちなみに私は「右利きの人は右目が良く、左目が良くない」と9歳まで信じていた)
実際、極端な話、良くも悪くも違和感を感じないで過ぎる一日はあまりに少なく、良くも悪くも一つ一つ、新しいロジックを知り、少しずつ自分の組成を知る。
5.14.2009
すとん
手紙といえば、出さない手紙もよく書いた。
正確には、「結果的に」出さないことにする手紙。
よくそうやって自分の陥っている状況に目鼻を付け、解決の糸口を見つけた。
(そして往々にして目鼻を付けることが解決だったりもする)
日記を書こうとしても三日と続かなかったのは、それを読むのが自分しかいないということで、大いなる、大胆なる、衝撃的なまでの省略と論理の飛躍を無意識に許していたからで、過去の自分に一切感情移入できない私としては、あとで読み返しても全く意味がわからない。
(それもどうかとも思うけども、本当に自分が何を書いていたのかがさっぱり見当がつかいない。何しろ、一番「書くべき」事件なり状況をこそ書いていないのだ。)
他方で手紙というものは宛先があり、方向があり、状況を知らない他者がいる。
そこで初めて、「あのね、まずこれがあってね、次にこうなってね、そしたらね・・・」という説明責任(!)が生じて、責任感を持って文章を書き始める。
そしてまたそこで初めて、自分で状況が理解できる、という展開で、基本的に「わからない」ということで苦しむことが多い私としては「わかる」ことですとんと納得し、もう手紙そのものが不要になるといった塩梅。
そういう経緯で書かれて出されなかった手紙は10通、20通を軽く超える。
それにしても不思議なのは、出す気がもともとない手紙では上のような「すとん」が起きないということ。
結局どこか独りよがりなのか・・・。
今、私にとっての手紙はこのブログで、まぁ不特定多数に「宛てて」いるので、基本的には具体的なことはすべてぼかしているけども、なかなかの「すとん」ぶり。
「書く」ということが私に及ぼす力には改めて驚くばかり。
正確には、「結果的に」出さないことにする手紙。
よくそうやって自分の陥っている状況に目鼻を付け、解決の糸口を見つけた。
(そして往々にして目鼻を付けることが解決だったりもする)
日記を書こうとしても三日と続かなかったのは、それを読むのが自分しかいないということで、大いなる、大胆なる、衝撃的なまでの省略と論理の飛躍を無意識に許していたからで、過去の自分に一切感情移入できない私としては、あとで読み返しても全く意味がわからない。
(それもどうかとも思うけども、本当に自分が何を書いていたのかがさっぱり見当がつかいない。何しろ、一番「書くべき」事件なり状況をこそ書いていないのだ。)
他方で手紙というものは宛先があり、方向があり、状況を知らない他者がいる。
そこで初めて、「あのね、まずこれがあってね、次にこうなってね、そしたらね・・・」という説明責任(!)が生じて、責任感を持って文章を書き始める。
そしてまたそこで初めて、自分で状況が理解できる、という展開で、基本的に「わからない」ということで苦しむことが多い私としては「わかる」ことですとんと納得し、もう手紙そのものが不要になるといった塩梅。
そういう経緯で書かれて出されなかった手紙は10通、20通を軽く超える。
それにしても不思議なのは、出す気がもともとない手紙では上のような「すとん」が起きないということ。
結局どこか独りよがりなのか・・・。
今、私にとっての手紙はこのブログで、まぁ不特定多数に「宛てて」いるので、基本的には具体的なことはすべてぼかしているけども、なかなかの「すとん」ぶり。
「書く」ということが私に及ぼす力には改めて驚くばかり。
5.12.2009
困惑、寛容、在り様
学生時代、よく手紙を書いていた。
今では信じられないけれど、eメールというものが世間を席巻する前の時代。
私が通っていた大学にはいち早くインターネットが導入されており、メールは毎日使っていたものの、とにかくひたすら文字を書いた。
自分がもがいて拾ってきた心の井戸の中にあった言語を理解する人に出会い、余計に夢中になって拾い、攫い、濾した。
驚くべきことに、言葉は取れば取るほど取れた。
その人とは、同じ授業で毎週会っていたのにも関わらず、毎週10枚以上もの便箋に書きなぐった手紙をひたすら送りあった。
もちろん会えば話す。足りなくて書く。の繰り返し。
溢れて溢れて止まらなかった。
ただ、おかげで他の人には要らぬ迷惑もかけたし、フラストレーションややり場の無い怒りに突き動かされて他人を攻撃もした(!)。
なぜ、彼ひとりしか私の言うことがわからないのか、わからなかったし、困惑していたのだ。
あれから15年以上がたち、今は、大人になるってこういうことか、というような、寛容と、納得と、諦観がある。
彼以外にも伝わる人がいるということ、そして「伝わる」というのが、同じ価値観を持つことを必ずしも意味しないことが分かり、「自由」という概念を含んだあらゆる概念から徐々に解き放たれてきた。
すべて言葉によって。
正確に言うと、言葉という道具を使って探ろうとする振る舞いによって。
「結局は言葉じゃないよね」という言語能力の低さを正当化するゴタクとは形式だけであっても正直向き合いたくないが、結局はもちろん言葉ではない。
言葉は言葉という「在り様」であり、言葉という「視線」だ。
言葉は視るためにあり、在るためにある。
せっかくだから視て、在ろうと思う。
今では信じられないけれど、eメールというものが世間を席巻する前の時代。
私が通っていた大学にはいち早くインターネットが導入されており、メールは毎日使っていたものの、とにかくひたすら文字を書いた。
自分がもがいて拾ってきた心の井戸の中にあった言語を理解する人に出会い、余計に夢中になって拾い、攫い、濾した。
驚くべきことに、言葉は取れば取るほど取れた。
その人とは、同じ授業で毎週会っていたのにも関わらず、毎週10枚以上もの便箋に書きなぐった手紙をひたすら送りあった。
もちろん会えば話す。足りなくて書く。の繰り返し。
溢れて溢れて止まらなかった。
ただ、おかげで他の人には要らぬ迷惑もかけたし、フラストレーションややり場の無い怒りに突き動かされて他人を攻撃もした(!)。
なぜ、彼ひとりしか私の言うことがわからないのか、わからなかったし、困惑していたのだ。
あれから15年以上がたち、今は、大人になるってこういうことか、というような、寛容と、納得と、諦観がある。
彼以外にも伝わる人がいるということ、そして「伝わる」というのが、同じ価値観を持つことを必ずしも意味しないことが分かり、「自由」という概念を含んだあらゆる概念から徐々に解き放たれてきた。
すべて言葉によって。
正確に言うと、言葉という道具を使って探ろうとする振る舞いによって。
「結局は言葉じゃないよね」という言語能力の低さを正当化するゴタクとは形式だけであっても正直向き合いたくないが、結局はもちろん言葉ではない。
言葉は言葉という「在り様」であり、言葉という「視線」だ。
言葉は視るためにあり、在るためにある。
せっかくだから視て、在ろうと思う。
5.11.2009
風を待つ
せっかくの満月なのに雲が光を覆う。そんな残念な気持ち。
満月は私のもの、そして雲も私。
風が雲を吹き飛ばすのを、私を吹き飛ばすのを待つ。
・・・と言っているうちにあっという間に自分で風を起こして雲が吹き飛び、残るは満月ばかり。
ひとり遊びなのかなんなのか、跳ね返る音を聞いてそれが何かがわかる。
そして、なーんだ、と、急に力が抜ける。
「わかる」が「わかった」と過去形になった瞬間のコトンと落ちるような静けさで、なんだか急に眠くなる。
満月は私のもの、そして雲も私。
風が雲を吹き飛ばすのを、私を吹き飛ばすのを待つ。
・・・と言っているうちにあっという間に自分で風を起こして雲が吹き飛び、残るは満月ばかり。
ひとり遊びなのかなんなのか、跳ね返る音を聞いてそれが何かがわかる。
そして、なーんだ、と、急に力が抜ける。
「わかる」が「わかった」と過去形になった瞬間のコトンと落ちるような静けさで、なんだか急に眠くなる。
5.10.2009
怠惰なカメラマン
片目が生まれつきあまり見えず、矯正もできない。
子供のころに精密検査を受けたとき、目の機能自体に問題が無かったことから「カメラには問題がないけれど、カメラマンがカメラをうまく使えていない」と言われた(らしい)。
目がカメラでカメラマンとは脳の視覚野のこと。
ピントを合わせることに興味を失ったカメラマンが私の脳にはいる、ずっとそう思ってきた。
幸い、残りの片目の視力が平均以上に良かったので、日常生活で困ることは無く、見えない目のこともなんとなく忘れていた。
左右の視力差のせいで起こる距離感の視覚と知覚のズレは、子供のころに原因と解決策を見つけていたので、もう起きることもなく、どちらかといえば目が良いということで得られる恩恵を受けていた。
最近、なぜか目の話をすることが多く、「それ、何か他のものを見るための目なんじゃない?」と言われて、腑に落ちなくもない気がした。
実感から言うと、「見なくてもいいものが見えない」に近いけれど。
そう考えると実は、見えていない方の目の恩恵も受けていたのかも知れない。
ある部分では人は努力しても無駄ということも体で知っていたし。
まぁ、以前は見えすぎた片目が邪魔したことも多かったけれど、年とともに視力が低下してきて、なんだかますます「見えて」きたような・・・。
見るって一体何なんだろう。
子供のころに精密検査を受けたとき、目の機能自体に問題が無かったことから「カメラには問題がないけれど、カメラマンがカメラをうまく使えていない」と言われた(らしい)。
目がカメラでカメラマンとは脳の視覚野のこと。
ピントを合わせることに興味を失ったカメラマンが私の脳にはいる、ずっとそう思ってきた。
幸い、残りの片目の視力が平均以上に良かったので、日常生活で困ることは無く、見えない目のこともなんとなく忘れていた。
左右の視力差のせいで起こる距離感の視覚と知覚のズレは、子供のころに原因と解決策を見つけていたので、もう起きることもなく、どちらかといえば目が良いということで得られる恩恵を受けていた。
最近、なぜか目の話をすることが多く、「それ、何か他のものを見るための目なんじゃない?」と言われて、腑に落ちなくもない気がした。
実感から言うと、「見なくてもいいものが見えない」に近いけれど。
そう考えると実は、見えていない方の目の恩恵も受けていたのかも知れない。
ある部分では人は努力しても無駄ということも体で知っていたし。
まぁ、以前は見えすぎた片目が邪魔したことも多かったけれど、年とともに視力が低下してきて、なんだかますます「見えて」きたような・・・。
見るって一体何なんだろう。
5.08.2009
木と鳥と森
最近知り合い、親しくなった人と10年以上も前に同じ場所で同じことをしていたことが昨日分かった。
目に見えない糸が急に見えたような、驚きと喜びがあった。
他人と同じ道を辿ることはできないが、触れ合い、すれ違い、少しなら一緒に歩くことすらできる。
そのとき目が合うかどうかは別として。
ずっと隣にいても背中を向け合っている場合もあるし、互いに常にふらふらしてるのに、相手のほうを見ると必ずこちらを見ている、という人もいる。
交差するXの字のように一点でしか触れ合わず、その後はただ離れていくだけの人やYの字のような関係もある。
消失点で交わる二本の線路のように、実際には交わっていなくても、ある視点からならそう見える関係もある。
もちろん一点の結びつきにも理由や意味があると思えるけれども、それはおそらくその人の存在に理由があるのではなく、その人との関係そのものに意味がある。
お互いが宅配便の配達人になったかのような、届け、受け取り、立ち去る、そんな「役目」を負っている。
二点が交わることは稀だ。
二点が交わるとき、関係だけではなく、その人を知ることに何か大事な理由がある。
一点と二点、どちらが重要かが問題なのではなく、それはただ違う。
いずれにせよ、出会う人がどちらなのかはなんとなく分かる―「目が合う」感じで。
普段はこちらを見ないのにこちらを「ふと」見た感じや、常にその方向を意識していながら「ふと」見た感じで。
この交差したりしなかったりする様子、自分と他者で考えると、どれだけ左右にぶれようが、ジグザグ歩行をしていようが、それは対社会的な揺れであって、常に自分は「まっすぐ」なので、超主観的に考えると、木と、木にに止まりに来る鳥の関係のようなものに見える。
巣を作るものもいれば、木の寿命を上回るサイクルで戻ってくる渡り鳥もいる。
もちろんその中間もそれ以外も。
前述の「ふと」は鳥の声とも言える。
この、聞き分け、見分けながらも互いに彷徨う感じ。意思の森はどこまで深いのか。
目に見えない糸が急に見えたような、驚きと喜びがあった。
他人と同じ道を辿ることはできないが、触れ合い、すれ違い、少しなら一緒に歩くことすらできる。
そのとき目が合うかどうかは別として。
ずっと隣にいても背中を向け合っている場合もあるし、互いに常にふらふらしてるのに、相手のほうを見ると必ずこちらを見ている、という人もいる。
交差するXの字のように一点でしか触れ合わず、その後はただ離れていくだけの人やYの字のような関係もある。
消失点で交わる二本の線路のように、実際には交わっていなくても、ある視点からならそう見える関係もある。
もちろん一点の結びつきにも理由や意味があると思えるけれども、それはおそらくその人の存在に理由があるのではなく、その人との関係そのものに意味がある。
お互いが宅配便の配達人になったかのような、届け、受け取り、立ち去る、そんな「役目」を負っている。
二点が交わることは稀だ。
二点が交わるとき、関係だけではなく、その人を知ることに何か大事な理由がある。
一点と二点、どちらが重要かが問題なのではなく、それはただ違う。
いずれにせよ、出会う人がどちらなのかはなんとなく分かる―「目が合う」感じで。
普段はこちらを見ないのにこちらを「ふと」見た感じや、常にその方向を意識していながら「ふと」見た感じで。
この交差したりしなかったりする様子、自分と他者で考えると、どれだけ左右にぶれようが、ジグザグ歩行をしていようが、それは対社会的な揺れであって、常に自分は「まっすぐ」なので、超主観的に考えると、木と、木にに止まりに来る鳥の関係のようなものに見える。
巣を作るものもいれば、木の寿命を上回るサイクルで戻ってくる渡り鳥もいる。
もちろんその中間もそれ以外も。
前述の「ふと」は鳥の声とも言える。
この、聞き分け、見分けながらも互いに彷徨う感じ。意思の森はどこまで深いのか。
5.06.2009
赤い膝
不可解なタイミングで涙が出ることがある。
泣きながら「え?何で?何で?」と実際に言うことすらあって、つい数日前も泣きながらアタフタしてしまった。
理由がわからずに。・・・というより理由に納得できずに。
この突き動かされる感じ、色々呼び方はあるんだろうけども、私は「本当の自分は知っている(けど、”私”は気づいていない)」モーメントと呼んでいる。
上のケースで言うと、納得できない”今の私”は本来納得「すべき」じゃないことに納得している、ということを、別のもっとよくものを知る「私」が涙を通して訴えてきた、というところか。
そもそもが不当な納得を裏返されて、(今の)私は逆に「納得できない」と感じる、というサイクルかな、と推理。
いずれにせよ、私はその頭がいい方(?)の私を信頼していて、頭が悪い方(として生きるしかないという事実は置いておいて・・・)に従わせている。
具体的には現在の自分の判断を信じない、ということで、だからこそ精一杯(馬鹿なりに)判断するし、勝手な出し惜しみなどせずに(どうせ馬鹿なんだから)、体当たりする、という方針。
で、たまに上のようなモーメントが訪れると、静かに自分の馬鹿具合を受け入れ、「あーホントはそうだったのか」と膝を打つ。
・・・この膝の赤さよ。
泣きながら「え?何で?何で?」と実際に言うことすらあって、つい数日前も泣きながらアタフタしてしまった。
理由がわからずに。・・・というより理由に納得できずに。
この突き動かされる感じ、色々呼び方はあるんだろうけども、私は「本当の自分は知っている(けど、”私”は気づいていない)」モーメントと呼んでいる。
上のケースで言うと、納得できない”今の私”は本来納得「すべき」じゃないことに納得している、ということを、別のもっとよくものを知る「私」が涙を通して訴えてきた、というところか。
そもそもが不当な納得を裏返されて、(今の)私は逆に「納得できない」と感じる、というサイクルかな、と推理。
いずれにせよ、私はその頭がいい方(?)の私を信頼していて、頭が悪い方(として生きるしかないという事実は置いておいて・・・)に従わせている。
具体的には現在の自分の判断を信じない、ということで、だからこそ精一杯(馬鹿なりに)判断するし、勝手な出し惜しみなどせずに(どうせ馬鹿なんだから)、体当たりする、という方針。
で、たまに上のようなモーメントが訪れると、静かに自分の馬鹿具合を受け入れ、「あーホントはそうだったのか」と膝を打つ。
・・・この膝の赤さよ。
le scaphondre et le papillon
常に、打ちのめされるのは当たり前のことによって。
「失うということは、元に戻ること」というメッセージをある映画から得た。
筋力や知力など、年を追うごとに次々何かを失っていく人間は無=死に向かっていて、それは慰めでも祈りでもなんでもなく、「元に戻っていく」んだなぁと淡々と感じ、心が揺さぶられた。
挿入されていた、物語とは直接関係のない二つのシーンによって、実はその映画の最も根幹を成すエッセンスが語られていた(ナレーションも音さえなかったけども)。
不可思議で不条理で不平等な命。
それを前にしたときの、あっけに取られるほどの荘厳さと馬鹿馬鹿しさはきちんと同居して、見るものを揺さぶる。
「失うということは、元に戻ること」というメッセージをある映画から得た。
筋力や知力など、年を追うごとに次々何かを失っていく人間は無=死に向かっていて、それは慰めでも祈りでもなんでもなく、「元に戻っていく」んだなぁと淡々と感じ、心が揺さぶられた。
挿入されていた、物語とは直接関係のない二つのシーンによって、実はその映画の最も根幹を成すエッセンスが語られていた(ナレーションも音さえなかったけども)。
不可思議で不条理で不平等な命。
それを前にしたときの、あっけに取られるほどの荘厳さと馬鹿馬鹿しさはきちんと同居して、見るものを揺さぶる。
ミナモ
相手との形勢を常に意識した話し方、もしくは、ただただ相手の方向に猛進してくる(いわゆる、土足で踏み込むともまたちょっと違う、)話し方が苦手なのは、それが既にどこにも行かないディスコミュニケーションだからだ。
前者の過剰な他者への意識は、関係にフォーカスが当たりすぎていて、逆に関係が存在しないし、後者の「待たない」、「気づかない」、「見ていない」ディスコースは全てが一方通行のバッティングセンターだ。
とはいえ、手順を踏むわけでも、関係を意識するわけでもなく、ただ普通に期待と時には不安やリスクと向き合いながらラリーをするだけのことが、なかなか難しい。
大胆であり繊細であり、相手によって変わりながらも常に一定でもあるこの「様子」は、川に流れる水ではなく、水面そのものであって、それはゆるぎなく緩やかな境目。
私はそれと、紡ぎながらか剥がしながらか、常に戯れている。
前者の過剰な他者への意識は、関係にフォーカスが当たりすぎていて、逆に関係が存在しないし、後者の「待たない」、「気づかない」、「見ていない」ディスコースは全てが一方通行のバッティングセンターだ。
とはいえ、手順を踏むわけでも、関係を意識するわけでもなく、ただ普通に期待と時には不安やリスクと向き合いながらラリーをするだけのことが、なかなか難しい。
大胆であり繊細であり、相手によって変わりながらも常に一定でもあるこの「様子」は、川に流れる水ではなく、水面そのものであって、それはゆるぎなく緩やかな境目。
私はそれと、紡ぎながらか剥がしながらか、常に戯れている。
5.05.2009
晴れ渡った霧の中
一緒にいると常に心洗われるような、peacefulな気持ちになれる人が、実はどこか他の場所では怖がられていたり、怒号を響かせていたりする、ということがよくある。
いつも、独特の透き通る感性とどこにも拠らないふわりとした自由な有り様で、その場の空気を静かに興奮させる、そんな尊敬すべき人と会うたび、解き放たれつつ刺激をもらう、恍惚とも言える状態になる。
そこには否定的な感情や感覚をも否定しない許容があって、行き止まりの道が無い。
どこにでも行けて、道はすべての道と通じている。
なかなか当たり前ではあるけども、果たして難しいことでもある。
文句も言い、批判もし、冗談も言い、感情的になり、理性の言語で語り、愛を知る。
そのどれもが「=」で、「≠」で結ばれて繋がって、途絶えている。
なんて素晴らしくてどうでもいいんだろう。
いつも、独特の透き通る感性とどこにも拠らないふわりとした自由な有り様で、その場の空気を静かに興奮させる、そんな尊敬すべき人と会うたび、解き放たれつつ刺激をもらう、恍惚とも言える状態になる。
そこには否定的な感情や感覚をも否定しない許容があって、行き止まりの道が無い。
どこにでも行けて、道はすべての道と通じている。
なかなか当たり前ではあるけども、果たして難しいことでもある。
文句も言い、批判もし、冗談も言い、感情的になり、理性の言語で語り、愛を知る。
そのどれもが「=」で、「≠」で結ばれて繋がって、途絶えている。
なんて素晴らしくてどうでもいいんだろう。
5.02.2009
5.01.2009
破壊の塔
言語の壁。そんなもの日本人とだってある。もっと言うとほとんどの人とある。
それが無い人を探して一緒にいるのに、表面上のコミュニケーション「言語」が自分の「母国語」と違うからといって壁があるというのはフェアじゃない。
同じ「言語」を話すフランス人も韓国人もいるし、アメリカ人もいる。
その「言語」の意識や感覚が無い人にとっては言語は日本語や英語やフランス語のような社会的言語を指すのだろうけど。
(英語圏からの)留学から戻った友人がまず語った「言語」についての話が英語ではなく、「言語」だったのが心地よく、それこそ彼と私が同じ「言語」で会話していることを明らかに感じさせた。
バベルの塔はある。見えないだけだ。
それが無い人を探して一緒にいるのに、表面上のコミュニケーション「言語」が自分の「母国語」と違うからといって壁があるというのはフェアじゃない。
同じ「言語」を話すフランス人も韓国人もいるし、アメリカ人もいる。
その「言語」の意識や感覚が無い人にとっては言語は日本語や英語やフランス語のような社会的言語を指すのだろうけど。
(英語圏からの)留学から戻った友人がまず語った「言語」についての話が英語ではなく、「言語」だったのが心地よく、それこそ彼と私が同じ「言語」で会話していることを明らかに感じさせた。
バベルの塔はある。見えないだけだ。
500年後の平等
必要なものはみんな違うのに、同じものを与えたり得たりすることが平等だと思っていて平等が善だと固執する人たちがいる。
もらったからあげる、返す、という固定化した思考。
しかも社会的に同じ程度のものを、という余計な分別。
あ、あの人に似合うな、と思って買ってきただけのお土産に1週間後には当たり障りのないお菓子が返ってきたり、独り言めいたメールにもすべて返信。
義理や「悪い」という感覚が悪いというわけではない、ということなど全く思わない。つまり悪い。
当たり障りのない関係を維持するためには必要かもしれないが、ぶつかるかもしれない、というリスクを根本に含む、「先へ」行ける関係のためには障害でしかない。
人間関係は過去の恩義で成り立っているのではなく、今この瞬間、たがいに自分自身をさらに理解・許容することを可能にしてくれる相手を求め会う気持ちで成り立っているし、そうでなければ「維持するために維持する」魔のスパイラルで自分が消費されるだけ。
自分を理解してくれる人がいることに安心するために人といるわけではなくて、とはいえ、だからこそ結果的にはそこに充足感もあるけども、自分が自分を理解したい。
そんなエゴイスティックな考えでいたとしても、それがエゴであることを知っている限り、相手にそれを押しつけることはないだろうし、瑣末な「義理」や「遠慮」などという感覚は視界を曇らせることが最初からわかっているからこそさっさとトイレに流し済み。
それをもってしても、自分が思ったことを思ったように言うということがある種、自由の権化のように神聖化されていて、そうするだけで逆にエゴイスティックに見える場合もあるようだけれど・・・。
このあたりの考え方は基本が違うとどうどうめぐりなんだけども、ざっくり言うと、タイムスパンの問題でもある。
平等も義理も、それを交換するという概念を受け入れたとして、1週間とか10年とかいう単位で返そうとするから問題かもしれない。
だから最近、「50年以内に返して」、と言うようにしている。
150年でもいい。500年でもいい。
この感じが実は輪廻転生のカルマの考え方と似てるのが面白いが、もうなんでもいい。
返さなくていいし、忘れていい。
欲にのみ生きたときこそ、無欲になるのこの感じ、ホント楽。
もらったからあげる、返す、という固定化した思考。
しかも社会的に同じ程度のものを、という余計な分別。
あ、あの人に似合うな、と思って買ってきただけのお土産に1週間後には当たり障りのないお菓子が返ってきたり、独り言めいたメールにもすべて返信。
義理や「悪い」という感覚が悪いというわけではない、ということなど全く思わない。つまり悪い。
当たり障りのない関係を維持するためには必要かもしれないが、ぶつかるかもしれない、というリスクを根本に含む、「先へ」行ける関係のためには障害でしかない。
人間関係は過去の恩義で成り立っているのではなく、今この瞬間、たがいに自分自身をさらに理解・許容することを可能にしてくれる相手を求め会う気持ちで成り立っているし、そうでなければ「維持するために維持する」魔のスパイラルで自分が消費されるだけ。
自分を理解してくれる人がいることに安心するために人といるわけではなくて、とはいえ、だからこそ結果的にはそこに充足感もあるけども、自分が自分を理解したい。
そんなエゴイスティックな考えでいたとしても、それがエゴであることを知っている限り、相手にそれを押しつけることはないだろうし、瑣末な「義理」や「遠慮」などという感覚は視界を曇らせることが最初からわかっているからこそさっさとトイレに流し済み。
それをもってしても、自分が思ったことを思ったように言うということがある種、自由の権化のように神聖化されていて、そうするだけで逆にエゴイスティックに見える場合もあるようだけれど・・・。
このあたりの考え方は基本が違うとどうどうめぐりなんだけども、ざっくり言うと、タイムスパンの問題でもある。
平等も義理も、それを交換するという概念を受け入れたとして、1週間とか10年とかいう単位で返そうとするから問題かもしれない。
だから最近、「50年以内に返して」、と言うようにしている。
150年でもいい。500年でもいい。
この感じが実は輪廻転生のカルマの考え方と似てるのが面白いが、もうなんでもいい。
返さなくていいし、忘れていい。
欲にのみ生きたときこそ、無欲になるのこの感じ、ホント楽。
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