4.27.2009

ある国に今年でかけようと思い、その国出身の友人のことをぼんやり思い出していたら、次の日その人から電話がかかってきた。
1年ぶりに。
驚きつつも、テレパシーかなんか送ってるな、私、と密かに納得。

友人の国籍が様々だということでインターナショナルだと言われたりすることについて、確かにナショナル(国籍)はインター(超える)だなど思うけれども、自分がかなり狭い世界で生きていることを思うと、だからこそ日本じゃ足りない、というだけにすぎないのに、国をまたいだだけで何かが広いと思われるのが、妙な感じだ。どっちかというとかなり狭い方なのに。
日本人とも付き合えて、外国人とも付き合える、というような見られ方があるからだろうか。
実情は、日本人ともあんまり付き合えないし、外国人ともあんまり付き合えないんだけどな、というところなんだけど。
まあいい。押しつけてこない限り人は何を思うのも自由。

とはいえ。
私は過剰なまでの「素敵な」レッテルを貼られることが多くて、それに実に辟易する。
結局、「のび太のくせに!」と言い放ったスネ夫の思考回路と同じで、思考停止で、そこからの交通が全くないから。
物事やヒトについて分類したくなるのは、統合し理解を促進することで無駄なくエコノミカルに生きようとする人の性でもあるとしても、分類不可であるということを自分に許せるか、というのは間違いなく純粋思考へのチャレンジだ。
分類不可について、多くが「どこかの分類に無理やり放り込む」や「その他として排他(称賛や蔑みによって)」であるのに対し、分類体系自体を都度根本から見直したり、究極的には「分類しない」という道が存在する。
私としては「分類しない」に近づきつつ、そのカオスの持つ破壊力を内包できるほどの力が自分に溜まるのを待っている、感じ。

昨日出会った人に「”その時”が来たらまたお会いしましょう」と言われたのが妙に今の自分にぴったりで、もしや、だからこそ上のようなことを考えたのかもしれないけれど、常に人には必要な言葉を聞きとる耳が与えられているのだとも思え、耳に感謝。