6.25.2009

くせ毛?

人前で発表するなんて嫌いだ、だから物を作って(代弁させて)いるのに、とぶつぶついいながら発表している人を見た。
そして彼女は言葉で語ることの無為について「語り」、聴衆に沈黙を強いた。

何重にもひっかかるところがあって、どこがスタート地点なのかもよくわからないけど、やはり「(自分は)言葉では現せないからものを作っている」という認識に対する違和感かもしれない。
言葉では表せないことを現すのはいいし、自分が言葉では言い表せないのも別に知ったことではないが、それって因果関係?と。
彼女は、沈黙こそが最も雄弁であることに気付いてほしい、というようなことも言っていた(だからこそそれを強いたわけだろうけど)が、あまりに陳腐で赤面しそうになった(または最近意気揚々と飲んでいるビールのせいで本当に赤面していた)。

自分の表現方法を信じるのはいい。それを人に語るのも自由。
ただ、真に豊かな言葉でのみ発掘しうる、語られ得ぬ地層に到達しようとする有様をも捨てるのを強要しないでほしかった。
表現の定義にもよるけれど、それが己を「出す」だけではなく「映し」たり、「示し」たり、「探る」ことをも含むのなら、言葉の否定は自己矛盾を生むはず。
少なくとも私が思う言葉は氷山を掘るスコップのように、「足らないけど、無いよりはまし。たどり着こうと/掘りだそうとはしている。」態度そのものなので。
こんな私の勝手な定義に共感があまりないのも含め、個々人の定義が違うのは構わないし、パフォーマンスとしてなら、それを押しつけがましく見せられるのもそこまでいやではないが、意見として、聴衆を前に語られるのを聞くのは単純にきつかった。
きっと私が上記のようなことを聴衆の前で語るとしても、多くにとって、それは「きつい」んだろうとは踏まえた上で・・・。

いずれにせよ、言葉を介さないイメージを作る人たちの中に多い、「言葉否定派」。
自分の言語表現能力が低い、とだけどうして言えないのか、本当に疑問。
実際低くて悪いなんて誰も言ってないんだし、「走るのが遅い」と同じ、人それぞれに備わった資質なのに。
「私、くせ毛なんです」くらい、「あそう(それでどうしたの?)」っていう内容なんだと思うんだけど・・・。

6.22.2009

フリル

好き嫌いなど、考えても変わるものでも解るものでもないものについてが問題となるとき、決断するのは楽だ。
けれど、根本的なところでは多くのことはだいたいそういうことなんじゃないか、と思う。
考えてみたら、努力してみたら、だんだんXXXになってきた、というのはどうも信じがたい。
人についても、努力して変えられるような次元で好きにも嫌いにもならないし。
表層の好き嫌いは深層の好き嫌いのフリルでしかない。
幼稚園のとき、ウェディングドレスを見てフリルをおぞましく感じた感性は今も同じで、そんな「彩り」を身に着けないで済むならばかえって喜んでフリルをこそ作りたい。

布付き棒

ゲリラ豪雨の中、誕生日の夜を迎えた。
どうも傘との相性が悪い(傘を持って出ると雨が止み、傘を持たなければ雨が降る)私は自分を「傘女」と呼んでいるが、先日面白い傘に出会った。
霧雨しか降らないイギリス製のその傘の繊維はあまり密に作られていないらしく、豪雨にまったく耐えない。
耐えない、というのは雨を通す、という意味で、傘を差していながら、傘の中に霧雨(もしくはそれ以上)が降る!
傘を差しているのにぐっしょり濡れるんだ、と持ち主は愚痴りながらも気に入っている様子。
私もそれを聞いて、その「傘の中の雨」を体験して、すっかり気に入ってしまった。

結局、傘を差しているから濡れない、ということも別に法律で決まっているわけでなし、勝手な思い込みなんだろうと思えて可笑しくなった。
それは傘ではなくただの布付き棒だろう、という話になったが、それこそ他の傘もみんなそうで、結局形状や習慣からモノの持つ「それ」らしさを私たちはいかに決め込んでいるか、を思い知らされるような気がした。
たとえば1億本の傘を見たことがあって、すべてが雨から濡れないためのものだったとしても、その1億1本目に見たり使ったりした傘がそうでなかったら、それはそうではない、というだけだ、という当たり前の理屈。
無理やり既成のカテゴリに入れる必要は無く、「今までにない」という単純なラベルの元、分類を分ければいい、分類したければ。

こんなに頭を気持ちよく刺激する、その布付き棒バンザイ、雨バンザイ。

shape

Sometimes I think in English so that I can have a perspective on what's going on in or around me.
I am not too good to be "able to" be trapped in the language or not too bad to express myself in it.
Especially when I get too close to whatever things I'd think I manage to do but possibly couldn’t, thinking in English would just give me the perfect room I'd need to keep from those things.
Of course it also helps me collect thoughts that would otherwise scatter around...

The other day, I was thinking about the idea of trust and betrayal, supposedly opposed to each other.
The two emotional elements, which, by the way, have never been bound together in my mind or experiences and the idea of which has bugged me because of that, finally came off completely when I found a better word, "expectation" to complement the latter.
As I wrote in this blog somewhere, trust has the shape of a sphere that does not have "the other side" of it by its nature.
It's just so round you don’t know which is up or down, where it begins and ends, and if it ever has the front and back.
It's not even connected to anything in any way: at least that's how I feel.
On the contrary, "expectation" has a shape of a thin paper which has two sides just like betrayal does: in fact, they are each other's "the other side."

As much as trust is a sphere, I feel any idea or concept has its own unique if abstract shape: what we only can do with it is to find and appreciate as is.
I am not saying that we should always compare ideas to shapes but to try to understand what they really are to us.
If I can go on like this, I should inevitably discuss words as a vehicle though...but not in detail here today...

Anyway, I will stop here by saying seeing what you see matters more than you wouldn't believe.

(to be continued)

6.10.2009

to be or not to be?

意味ありげに、無意味なことを言うのが好きだ。
もしくは、意見のような描写。

騙しているわけでも、騙す意図があるわけでもないが、気づいてくれそうな人にだけちょっと言ってみる。

AかBしかない状況で、おもむろに「結局さ、AをするかBをするかのどっちかだよねー」など、言う意味自体まったくないことを言うことで、事態を撹乱ならぬ攪拌する。
実はTo be or not to beのもじりなんだけども。と、これもでっち上げ。か。

何にせよ、状況は温存したまま、会話を「中二階」的なところに浮遊させる展開が本当に好き。
こんな私の密かな楽しみに一番激しく反応してくれる(地団駄を踏んで悔しがったりする)誕生日と携帯の機種が同じである、Kちゃんと居た日にはもう、それは。
会うなり嘘と本当の間に落ちている落ち葉を拾う、か拾わないか、まあだいだいそのどちらかをしている。


6.09.2009

観察と疑問

子供のころ、箸が使えるようになったのが嬉しかったのか、電話帳を箸でめくっていた、と聞かされた。
帽子に長靴、という「制服」を着て、隣にある公園に公務員さながらの几帳面さで「通勤」していた2-3歳当時も、朝から晩まで砂場に一人でうずくまって何かをしていたらしい。
三つ子の魂百まで、というけれど、どうもそういう反復や観察が今でも好きだ。
ただ、大人になる過程で、たとえば雨粒を見続けるのもこれくらいにしよう、とか、そんな分別をもれなく身に付けたせいで、今はきっと思う十分観察はできていない。
そんな余計な分別はできる限りはぎ取って、いつもきょろきょろわくわくしていられればいい。
「なんで?」と一日に数百回繰り返していた疑問をもう一度言えればいい。
もっと言うと、その「なんで?」と問う前の状態に戻れればいい。
何かを作る時に思うのはそんなこと。
雨を見ながら、雨の始まりを思い、雨の不思議を思い、雨を作る。

6.08.2009

イケメン象さん

「彼は興味の無い人には一切口を利かないよ。実際、見えてもいないみたい」
というある人の評価を聞いて笑ってしまった。
わかる!と思って。
私の場合、見えてはいるんだけども、焦点が合わない、という感じ。
会ったことのないその人に会ってみたくなった。
その人の話をしてくれた彼女は「顔は象さんみたいだよ」、とわけがわからない。
写真を見せてもらったところ、象っぽかったかどうかは別として、良い顔をしていた。
顔が全てだなぁとつくづく思う。
好きな人たちの顔はいつ見ても好きだし美人だしイケメンだ。
そして嫌いな人たちの顔はいつ見ても本当に不細工だ。 救いようがない。

シンプルであまり間違いの無いこの感覚、便利だなぁと思う。
見た目と感情が違う、という感覚すらもう忘れてしまったが、どんな感じだったんだっけ。
アンビバレントな感情だったんだったか、驚きだったのか
今はこれが普通になりすぎて景色と一体化してしまった。
得ることは失うことでもある端的な例。

6.07.2009

ビーチグラス

遠く離れた生まれた町の記憶はほとんど無いものの、そこで起きることには不思議とつながりを感じている。
瑣末な事情を疎ましがる態度をドライだと言われ、微妙な音に耳をすませていることや、実は感情そのものとして生きていることにはあまり気付かれない、私同様、思想的色弱なある女性に出会えたのもそこに出向いたから。
全く違う素材でありながら、どこか通じあうものを互いに作っていて、その「モノ」の相性も人間同様にしっくりきた。
不思議で当たり前なこんな出会いは、そこかしこ、とは言わないまでも、確かに存在している。
そちらに眼を向けて、ちゃんと見て、ちゃんと感じればすぐにわかる。
それは、だんだん良くなるものでも、だんだん悪くなるものでもなく、ただそれがそれであるという確かさでそこにあるので、悩んだり迷ったり、時間をかけて見極める必要すらなく、するべきことは海岸でビーチグラスを拾うがごとく、手を伸ばして拾うだけ。
波にさらされて表面が削られ、半透明な様子できらきら光る、あれを見つけたあの気持ち。
驚きと嬉しさと温かさと新しい視野。

6.06.2009

景色の切り取り線

ロスコのシーグラムを見に行った。
浮き上がる線、消え行く色、遠ざかり、遮られ、形を失いながら、脳裏でイメージが像を結ぶ。
絵画のなせる技にただただ感嘆する。
シーグラムに満たされたその部屋は、部屋全体が振動しているかのごとく、不思議な波動に満たされていて、できることといえば、巨大な画面にいつの間にか飲み込まれているのを単に自覚するのみ。
見れば見るほど見えてくるような、隠されていくような惑う感覚に揺さぶられ、知覚の皮が一枚むけるような、別の目を手に入れたような気にすらなり。
良いとか悪いとかいう評価を超えて、すでに一つの景色へと昇華した絵の存在感。
私が見たのは景色の切り取り線だったのか。

6.01.2009

氷山の一角の一角/tip of tip of the iceberg

久々にテグスを心底恨んだ。
あの、摩擦の少ない、やり直しのきかないアイツ。
けど美しいので使ってしまう。

実は、最近、arts&science mens shopのショウウインドウのディスプレイをさせてもらえる機会をいただいて、閉店後から翌日の開店前までの時間で展示するという作業をした。
モノを置く作業であればさほど時間のかかるスペースではなかったものの、そこに設置しようとしたのが「吊り」作品だったため、エンドレスな時間を費やす羽目になった。
そのあまりの困難さを3人のスーパー助っ人に助けられて乗り越え、なんとか設置できた暁には、飲めないビールも飲めるというもの。

その作品は「Tip of Tip of The Iceberg」という作品で、日本語でいうと「氷山の一角の一角」。
この同じタイトルで同じ作品をいくつか作っているほどこの言葉が好きで、この、少しだけ見えているものから全体を感じるイメージが、自分のものの見方にフィットする。
私にとってこれは、結局見えていない、という、見ることへの否定ではなく、見ていることと知るということの関係を受け入れるということで、新しい角度で「見る」ことと、「見る」ことそのものへの興味を呼び覚ます鍵のような存在。

眼鏡用の度の異なるレンズを繋いで大きな眼鏡を作り、それを「tip of the iceberg」という言葉の上半分(Tip)だけが見える水平線になぞらえたシートの前の空間に浮かせる作品。
どれだけ目を凝らしても、どの角度から見ても、どのレンズで矯正しても、見えるのは氷山の一角の一角だけ。
それは諦めではなく、新しい知覚。