結局望むところには行けて、望むことができる。
遅かれ早かれ、楽であれ酷であれ。
だったら早く気づいてそこに向かえばいい、という気持ちと、得た瞬間に「あ、コレを求めてた」と思えるような、見えてもいなかったものにそのときに気づける知を持っていればいいという気持ちがよく交錯する。
ずっと文句を言って暮らす人は、ずっと文句を言っていたいし、レストランでサラダを取り分ける人は、レストランでサラダを取り分けたいのだ。
もう色々なことを察して、期待して、空気を読んで、役割を演じるのはやめよう、と言語で認識してから相当たつけども、実は(大きな意味での)周りはあまり変わっていない。
小さな意味では世界は格段にそんな人に溢れてるけど、普通それは世界とは呼ばれないようなミクロな話。
AだったらBだろうからCがいいだろう、という思考パターンは統計的、経験的に蓄積されていく。
でも本当に?
だいたいそうだと言えても、今、この瞬間、この人は、と考えたときの瞬発力とイメージ力をそれは殺ぐ力も蓄える。
抽象化能力と系統的学習能力が高いほどその罠にはまりやすい気もする。
とはいえその二つは日常の瑣末なことを一気に生ゴミの日に出せる基本でもあったりして、結局ややこしい話。
中庸ってこれ?ここ10年余り、それを思っては、その、興奮できない言葉やアイディアにちょっと呆れる思い。
とはいえ最近、絶妙なタイミングで読んだ集団学習についての本にも東洋でもなく西洋でもない「そこ」(とはいえそれは西洋側からの視点だったため、一旦東を見るということで「そこ」に行く方法論も否定されてはいなかったけれども)にいて、個でもなく集団でもない人間であることが書かれてあり、ひどく共感を覚えた。この、不思議なような、全く不思議じゃないような感覚はきっと全体を意識できる細胞になることなのかな、と想像したり。
位置を理解するために示された座標のないところに立った瞬間、逆に全体像が見えることにも似ているはず。
私にできることはまっすぐ立つことくらい。