無為な時間を過ごせないなら、人と会うのをためらってしまうことがある。
もし3時間しかない、とわかっているとしたら「会う時間がない」と捉える。
会った時、生産的なことを効率的に行うこと以外できないとしたら、なんだか逆に退屈してしまう。
なんとなく、の時間をなんとなく過ごすことが至上の贅沢だと思うし、その贅沢の中にしかないものが、私がほしいものの一つなんだと思う。
思い出すのは、訳あって私が心で「大使」と呼ぶある人のこと。
同じ公募展に出していたことから知り合って、3度目に会ったのはすでに私の家で朝の6時までしゃべり倒した、その彼女は「なんとなく」の大家であるように思えた。
彼女の若いころの遊びの話を聞くだけで、どんな出来合いの物語よりも、面白く、濃厚で、刺激的だった。
それは他愛もないおしゃべりだったり、何かを思いこむゲームだったりしただけだったのにも関わらず、「なんとなく」がどこまで滑って行くのかという明らかな思考実験なのだ。
私は普段ゲームにはあまり興味がないのだけれど、彼女のゲームや冗談は、彼女の体の中心にあるというか、彼女自身のありかたと関わっているというか、とにかく力強いせいか、惹きつけられてやまない。
彼女とその友達たちにしか通じない、謎の「歌舞伎クラブ」、入りたかったなあ。