思いつきはひらめきと同じで、実はそのとき思ったのではなくて、今まで思っていたことの瞬間的発露だ。
だから人の思いつきを見るのも楽しいし、自分の思い付きを実行するのも楽しい。
その「こと」自体を熟考していたのではないけども、それを「醸成」していた、ということに気づく瞬間。
そんなとき、シナプスが繋がった!と勝手に思うし、繋がった!と思うと繋がる、とも思っている。
イメージの力で行けるところまで行く、という実験中。
4.27.2009
耳
ある国に今年でかけようと思い、その国出身の友人のことをぼんやり思い出していたら、次の日その人から電話がかかってきた。
1年ぶりに。
驚きつつも、テレパシーかなんか送ってるな、私、と密かに納得。
友人の国籍が様々だということでインターナショナルだと言われたりすることについて、確かにナショナル(国籍)はインター(超える)だなど思うけれども、自分がかなり狭い世界で生きていることを思うと、だからこそ日本じゃ足りない、というだけにすぎないのに、国をまたいだだけで何かが広いと思われるのが、妙な感じだ。どっちかというとかなり狭い方なのに。
日本人とも付き合えて、外国人とも付き合える、というような見られ方があるからだろうか。
実情は、日本人ともあんまり付き合えないし、外国人ともあんまり付き合えないんだけどな、というところなんだけど。
まあいい。押しつけてこない限り人は何を思うのも自由。
とはいえ。
私は過剰なまでの「素敵な」レッテルを貼られることが多くて、それに実に辟易する。
結局、「のび太のくせに!」と言い放ったスネ夫の思考回路と同じで、思考停止で、そこからの交通が全くないから。
物事やヒトについて分類したくなるのは、統合し理解を促進することで無駄なくエコノミカルに生きようとする人の性でもあるとしても、分類不可であるということを自分に許せるか、というのは間違いなく純粋思考へのチャレンジだ。
分類不可について、多くが「どこかの分類に無理やり放り込む」や「その他として排他(称賛や蔑みによって)」であるのに対し、分類体系自体を都度根本から見直したり、究極的には「分類しない」という道が存在する。
私としては「分類しない」に近づきつつ、そのカオスの持つ破壊力を内包できるほどの力が自分に溜まるのを待っている、感じ。
昨日出会った人に「”その時”が来たらまたお会いしましょう」と言われたのが妙に今の自分にぴったりで、もしや、だからこそ上のようなことを考えたのかもしれないけれど、常に人には必要な言葉を聞きとる耳が与えられているのだとも思え、耳に感謝。
1年ぶりに。
驚きつつも、テレパシーかなんか送ってるな、私、と密かに納得。
友人の国籍が様々だということでインターナショナルだと言われたりすることについて、確かにナショナル(国籍)はインター(超える)だなど思うけれども、自分がかなり狭い世界で生きていることを思うと、だからこそ日本じゃ足りない、というだけにすぎないのに、国をまたいだだけで何かが広いと思われるのが、妙な感じだ。どっちかというとかなり狭い方なのに。
日本人とも付き合えて、外国人とも付き合える、というような見られ方があるからだろうか。
実情は、日本人ともあんまり付き合えないし、外国人ともあんまり付き合えないんだけどな、というところなんだけど。
まあいい。押しつけてこない限り人は何を思うのも自由。
とはいえ。
私は過剰なまでの「素敵な」レッテルを貼られることが多くて、それに実に辟易する。
結局、「のび太のくせに!」と言い放ったスネ夫の思考回路と同じで、思考停止で、そこからの交通が全くないから。
物事やヒトについて分類したくなるのは、統合し理解を促進することで無駄なくエコノミカルに生きようとする人の性でもあるとしても、分類不可であるということを自分に許せるか、というのは間違いなく純粋思考へのチャレンジだ。
分類不可について、多くが「どこかの分類に無理やり放り込む」や「その他として排他(称賛や蔑みによって)」であるのに対し、分類体系自体を都度根本から見直したり、究極的には「分類しない」という道が存在する。
私としては「分類しない」に近づきつつ、そのカオスの持つ破壊力を内包できるほどの力が自分に溜まるのを待っている、感じ。
昨日出会った人に「”その時”が来たらまたお会いしましょう」と言われたのが妙に今の自分にぴったりで、もしや、だからこそ上のようなことを考えたのかもしれないけれど、常に人には必要な言葉を聞きとる耳が与えられているのだとも思え、耳に感謝。
4.25.2009
2.5次元
2次元でモノを考える人と3次元でモノを考える人がいたとしたら、その中間にいるような。
今日は、同じ楽器の音をただひたすら聞いた。
その中間の人の音を聞きにいったのだ。
同じ楽器というのも面白いもので、ただ壊れた音や、自分のルールを押し付けるような頑固な音や、技量を誇る自意識の音や色々な音が非常に聞き分けやすかった。
2.5次元のその人の演奏は、美しく、謙虚で、独特の空間を持っていて、音をなにかの面の上に置きながら、その面を立体的に構成していく様子が、彼の本業である、映像のコラージュを彷彿とさせた。
音の持つ温度や厚みが、まっすぐで、芯の強い、地に足の着いた本人とすべて重なった。
雨のせいか、一粒の雨粒が水面に落ちて水紋が拡がる様子と音のイメージが重なって、メロディーからフォーカスをずらすと、音が雨そのものにすら思えてきた。
ホールに降り注ぐ雨は温かかったと、外の冷たい雨に濡れて初めて思う。
今日は、同じ楽器の音をただひたすら聞いた。
その中間の人の音を聞きにいったのだ。
同じ楽器というのも面白いもので、ただ壊れた音や、自分のルールを押し付けるような頑固な音や、技量を誇る自意識の音や色々な音が非常に聞き分けやすかった。
2.5次元のその人の演奏は、美しく、謙虚で、独特の空間を持っていて、音をなにかの面の上に置きながら、その面を立体的に構成していく様子が、彼の本業である、映像のコラージュを彷彿とさせた。
音の持つ温度や厚みが、まっすぐで、芯の強い、地に足の着いた本人とすべて重なった。
雨のせいか、一粒の雨粒が水面に落ちて水紋が拡がる様子と音のイメージが重なって、メロディーからフォーカスをずらすと、音が雨そのものにすら思えてきた。
ホールに降り注ぐ雨は温かかったと、外の冷たい雨に濡れて初めて思う。
4.24.2009
数学 1
光が何かの隙間から降り注ぎ、それが水に反射するような音。
誰かが作ったものだけども、作った音には聞こえない。
音の速さとは反対に、スローモーションな感覚が引き起こされて、始まりや終わりについての意識が飛ぶ。
歌をあまり聞かない理由の一つには、この始まりと終わりについて否応なく意識させられてしまうことへの違和感がある。
構築されたストーリーを聞くより、繋がれた音を切り取る作業の方がしたいからかも。
意識するということについては言葉は強いが、意識そのものは言葉ではないので、その違いについて無自覚な言葉を聞くのも苦痛でもあり。
無自覚の海をさまよって数匹の魚を探す気にもなかなかなれない。
結局のところ「音楽」が好きなのではないんだろうと思う。
きっと。音を使って意識の階段を上りたい/下りたい、または単純に行ったことのないところに行きたいだけ。
そう考えると好きなもの、ジャンル、なんていうのも根本的には存在しない。
好きなものが好きなのであって、そのジャンルだから好きなのではない。
たとえば「日本人が好き」なんて絶対言えないけど、「好きな人が日本人」は言える。
こういうことを考えているといつも浮かぶのが(数学の)集合概念で、どちらがどちらを排他するのか、包含するのか、ということ。
どちらが優位概念か、とか、自分の潜在変数は何か、とか、自分がそんなことを常に考えていたことを最近知った。
これが数学的だなんて言わないけども、少なくとも私が(まったく数学自体はできないのに)数学に惹かれる大きな理由の一つではある。
数学的概念自体が私には、意識の井戸を降りる縄梯子なんだろうな。
数学についてはまた書きたい。
誰かが作ったものだけども、作った音には聞こえない。
音の速さとは反対に、スローモーションな感覚が引き起こされて、始まりや終わりについての意識が飛ぶ。
歌をあまり聞かない理由の一つには、この始まりと終わりについて否応なく意識させられてしまうことへの違和感がある。
構築されたストーリーを聞くより、繋がれた音を切り取る作業の方がしたいからかも。
意識するということについては言葉は強いが、意識そのものは言葉ではないので、その違いについて無自覚な言葉を聞くのも苦痛でもあり。
無自覚の海をさまよって数匹の魚を探す気にもなかなかなれない。
結局のところ「音楽」が好きなのではないんだろうと思う。
きっと。音を使って意識の階段を上りたい/下りたい、または単純に行ったことのないところに行きたいだけ。
そう考えると好きなもの、ジャンル、なんていうのも根本的には存在しない。
好きなものが好きなのであって、そのジャンルだから好きなのではない。
たとえば「日本人が好き」なんて絶対言えないけど、「好きな人が日本人」は言える。
こういうことを考えているといつも浮かぶのが(数学の)集合概念で、どちらがどちらを排他するのか、包含するのか、ということ。
どちらが優位概念か、とか、自分の潜在変数は何か、とか、自分がそんなことを常に考えていたことを最近知った。
これが数学的だなんて言わないけども、少なくとも私が(まったく数学自体はできないのに)数学に惹かれる大きな理由の一つではある。
数学的概念自体が私には、意識の井戸を降りる縄梯子なんだろうな。
数学についてはまた書きたい。
4.22.2009
token
私を「掴みどころが無い」と形容したその人といるのが好きで、「掴もうと」しない態度も好きで、「掴めない」ものだと知っている知性が好きだ。
人は普通だし変わってるし、賢いし馬鹿で、とはいえそのどれもが単なる解釈と評価でしかない、つまり、実体ではない。
「今は」+「そう見える/思う」を交換しながら像をぼんやり見るくらいが関の山と思えるその人の知性には、許容と受容があって、それこそそれは単なる私のその人に対する解釈でしかないので、本人は同意してくれないのかもしれないけど、遠くを見る目と地に生えた力があって真正面からモノを見据えることを可能にする。
おかしな響きだけれども、私をちゃんと馬鹿にしてくれる人は本当に貴重で、私ではなく、行動や行為を純粋に見てくれることで、結果としてああちゃんと私を見てくれているんだな、と感じる。
XXであるこの人がすることはすべてXXである、という分かりやすさは便利ではあっても、一種の断絶でもあり、そこから何も生みはしない。
この種の分かりやすさは保留された理解であって、理解とは根本的に違うということに気づくほうが実は面倒だし、もどかしさや時として痛みも伴うものでもあるけども、これこそが地平に向かうための重要なトークンの一つ。
人は普通だし変わってるし、賢いし馬鹿で、とはいえそのどれもが単なる解釈と評価でしかない、つまり、実体ではない。
「今は」+「そう見える/思う」を交換しながら像をぼんやり見るくらいが関の山と思えるその人の知性には、許容と受容があって、それこそそれは単なる私のその人に対する解釈でしかないので、本人は同意してくれないのかもしれないけど、遠くを見る目と地に生えた力があって真正面からモノを見据えることを可能にする。
おかしな響きだけれども、私をちゃんと馬鹿にしてくれる人は本当に貴重で、私ではなく、行動や行為を純粋に見てくれることで、結果としてああちゃんと私を見てくれているんだな、と感じる。
XXであるこの人がすることはすべてXXである、という分かりやすさは便利ではあっても、一種の断絶でもあり、そこから何も生みはしない。
この種の分かりやすさは保留された理解であって、理解とは根本的に違うということに気づくほうが実は面倒だし、もどかしさや時として痛みも伴うものでもあるけども、これこそが地平に向かうための重要なトークンの一つ。
4.20.2009
時空
バランスをとることはその定義からして危うく、常なる努力を要する、という文章を読んで、そしてその本人のバランスの取れたありさまと知性を思う。
好奇心が強い反面、慎重な一面もあり、あるがままを受け入れながら、綿密な準備も怠らない。
素直で懐疑的、常に楽しもうとしながら、建設的な批判は惜しまず。
大人で子供なその人に私はただただ引き寄せられるばかりで、考える余地も無い。
誰かに初めて会った瞬間に懐かしく思うようなことがデフォルトになりつつあるとしても、特別なものは特別で、明らかに日常の風景からは際立っている。
なぜか3年前、一気になだれ込むようにそんな経験を繰り返し、そこから現在に至るまで絶えずに続いている。
何がはじめなんだろう、何がきっかけなんだろう、とよく思う。
考えれば考えるほど曖昧で、中学生のときのあの違和感かな?と、思いは既に時空といえるほど遠くへ遡る!
小さな違和感から小さな行動へ。
小さな行動から小さな決断へ。
小さな決断から小さな選択へ。
きっとそういうことなんだろうな。
好奇心が強い反面、慎重な一面もあり、あるがままを受け入れながら、綿密な準備も怠らない。
素直で懐疑的、常に楽しもうとしながら、建設的な批判は惜しまず。
大人で子供なその人に私はただただ引き寄せられるばかりで、考える余地も無い。
誰かに初めて会った瞬間に懐かしく思うようなことがデフォルトになりつつあるとしても、特別なものは特別で、明らかに日常の風景からは際立っている。
なぜか3年前、一気になだれ込むようにそんな経験を繰り返し、そこから現在に至るまで絶えずに続いている。
何がはじめなんだろう、何がきっかけなんだろう、とよく思う。
考えれば考えるほど曖昧で、中学生のときのあの違和感かな?と、思いは既に時空といえるほど遠くへ遡る!
小さな違和感から小さな行動へ。
小さな行動から小さな決断へ。
小さな決断から小さな選択へ。
きっとそういうことなんだろうな。
UFO
混乱は速やかに去り、あっけないほどの空虚感。
豪風と思った風が、本当の豪風によって微風と知らされたような、舞い戻ったUFOにとにかく感謝。
私を受け入れもしなければ、寄ってもこないのに、そばにいて受け入れるのは、進むべき道に私がいるだけという単純な事実が何よりも爽やかで、意図されないからこそ身勝手に解釈された温かさが妙に染み入る。
つまり、思考能力を奪われるほどの存在感に圧倒された結果、思考が冴え渡ってしまった、というわけで、話は振り出しだけども、こんなものを相手にしているんじゃなぁ、という諦めが救いだったりもして。
赤信号を渡るのが健康のためだなんて、話が遠いと思われるのがオチだが、母性のような植物のような、見えている光に従うのみ。
嗚呼。
豪風と思った風が、本当の豪風によって微風と知らされたような、舞い戻ったUFOにとにかく感謝。
私を受け入れもしなければ、寄ってもこないのに、そばにいて受け入れるのは、進むべき道に私がいるだけという単純な事実が何よりも爽やかで、意図されないからこそ身勝手に解釈された温かさが妙に染み入る。
つまり、思考能力を奪われるほどの存在感に圧倒された結果、思考が冴え渡ってしまった、というわけで、話は振り出しだけども、こんなものを相手にしているんじゃなぁ、という諦めが救いだったりもして。
赤信号を渡るのが健康のためだなんて、話が遠いと思われるのがオチだが、母性のような植物のような、見えている光に従うのみ。
嗚呼。
新緑の中
どこかに行くという感覚そのものと、どこかを見るという覚醒の瞬間のどちらを選ぶか、ということか、という話になった。
選ぶメディアはなんでもいい。
開閉するドアすらない椰子の木の下で、個ではない表現が可能になるなら、結局それがすべてだ、という気すらして。
たかだか1年弱会わないだけ、と思ってはいたが、やっぱりその人の言葉を通して見える景色は代えがたく、命に近く、透き通っていて、それをどれだけ求めていたかを思い知らされる。
どこかお互い欠けた感覚でさ迷いながら、生まれる音を待つ。
選ぶメディアはなんでもいい。
開閉するドアすらない椰子の木の下で、個ではない表現が可能になるなら、結局それがすべてだ、という気すらして。
たかだか1年弱会わないだけ、と思ってはいたが、やっぱりその人の言葉を通して見える景色は代えがたく、命に近く、透き通っていて、それをどれだけ求めていたかを思い知らされる。
どこかお互い欠けた感覚でさ迷いながら、生まれる音を待つ。
4.18.2009
球体
一言で言い表せる関係でも、物理的に密な関係でもない。
それでもこの「分かる」という感覚。
いつも「見つける」側の私がそのときだけは「見つけられた」のは誰に感謝したらいいのか。
裏や表すらない球体の感情。
心に深く根ざす、繕ったり、努力することもできない、例えていうなら、自分が生まれた場所のような場所が、ほんの少しでも重なるとき、時間は消える。
感情も感情ですらないかもしれない。
場所も場所ではなく、しまいに視覚も不要では、という感覚に・・・。
それでもこの「分かる」という感覚。
いつも「見つける」側の私がそのときだけは「見つけられた」のは誰に感謝したらいいのか。
裏や表すらない球体の感情。
心に深く根ざす、繕ったり、努力することもできない、例えていうなら、自分が生まれた場所のような場所が、ほんの少しでも重なるとき、時間は消える。
感情も感情ですらないかもしれない。
場所も場所ではなく、しまいに視覚も不要では、という感覚に・・・。
磁石
その人はいつも一瞬を見ていて、それを掴もうとし、そして焼き付ける。
その一瞬が一瞬では存在しえないことを体感しているからこそ過去や時間に縛られない。
求めるものが分かっているからこそ、それが探しに行かずとも得られることを知っている。
自分の弱さも認め、受け入れ、 目の前に拡がるすべての可能性にワクワクしながら冗談を言う。
その一瞬が一瞬では存在しえないことを体感しているからこそ過去や時間に縛られない。
求めるものが分かっているからこそ、それが探しに行かずとも得られることを知っている。
自分の弱さも認め、受け入れ、 目の前に拡がるすべての可能性にワクワクしながら冗談を言う。
最初は一人の人について書いていたのに、なんだか私の周りの人たちの多くについてになってしまった。
人は磁石だ。
何かを引き付ける。似たものや異なるものを。
4.16.2009
コイン
コインの表と裏ということは分かっていても、混乱してしまう。
いや、正直、どちらが裏なのか、というより、何に混乱しているのかも良くわからない。
自分に失望したのかもしれないし、希望を取り戻したような気もするし、結局仕方ないとも思える。
頑なにならず、受け入れ、積極的に自然体で流される、という行為の中には
何かを守らないことや、避けがたく他人を傷つけることや、それによる失望がある。
ただ結局はそれさえも受け入れるということでしかない。
外国語の文法のように、「そういうものだから」と思わないとやりすごせない。
それにしても常に軽々しくも本気なので、ある意味背水の陣でもあって、下がることはできず。
立っているだけで、何かを押しつけているように思われたり、攻撃しているように見られることには慣れていても、そんな状況に直面したときのそのどうにもできないやるせなさにはあまり慣れられない。
なにしろ私は本当にただ立っているだけだから。
分裂と重層のパラレルでメタな自分をいったりきたり。
いや、正直、どちらが裏なのか、というより、何に混乱しているのかも良くわからない。
自分に失望したのかもしれないし、希望を取り戻したような気もするし、結局仕方ないとも思える。
頑なにならず、受け入れ、積極的に自然体で流される、という行為の中には
何かを守らないことや、避けがたく他人を傷つけることや、それによる失望がある。
ただ結局はそれさえも受け入れるということでしかない。
外国語の文法のように、「そういうものだから」と思わないとやりすごせない。
それにしても常に軽々しくも本気なので、ある意味背水の陣でもあって、下がることはできず。
立っているだけで、何かを押しつけているように思われたり、攻撃しているように見られることには慣れていても、そんな状況に直面したときのそのどうにもできないやるせなさにはあまり慣れられない。
なにしろ私は本当にただ立っているだけだから。
分裂と重層のパラレルでメタな自分をいったりきたり。
4.13.2009
悲しき頭の悪さ
目が合うのはいい。
目が合わない会話は、なんだかもうちょっとだ。
物理的にも精神的にも。
受け入れるべきことと受け入れなければならないことの差が正直曖昧で、一体何なんだ、と自分に怒鳴りたくなることもしばしば。
計画することで失うことを尊重しすぎて計画が出来なくなっている自分に呆れつつ、「あそこ」へ行くにはどうしたら、と重い腰を上げてみようかと思うこのごろ。
で、何からしたらいいんだっけ?という頭の悪い問い。
つける薬がほしい・・・。
目が合わない会話は、なんだかもうちょっとだ。
物理的にも精神的にも。
受け入れるべきことと受け入れなければならないことの差が正直曖昧で、一体何なんだ、と自分に怒鳴りたくなることもしばしば。
計画することで失うことを尊重しすぎて計画が出来なくなっている自分に呆れつつ、「あそこ」へ行くにはどうしたら、と重い腰を上げてみようかと思うこのごろ。
で、何からしたらいいんだっけ?という頭の悪い問い。
つける薬がほしい・・・。
4.10.2009
鏡文字
顔しか見ていないような気がする。
うなづき方や、質問のしかた、笑い方、歩き方、を全部含めた顔。
うまくいえないけれど、人間の全てから肉体的特徴を引いたときに残るもの。
物理的な顔ではないんだけど、でもそれがやっぱり物理的な顔を窓として見えてくる。
顔には目があるからかもしれない。
目から光を出してるのか、なんなのか、分からないが、謙虚でありながら恐れない目はそれだけで宝石のように、そうでないものの中からくっきり浮き立っている。
それが見えてから、(正確には、見てきたものがそれだと気づいてから)色々なことが分かりやすくなった。
一瞬で見つけることも、見つけてもらうこともできるようになった。
「顔に書いてある」という表現があるけれど、ほんとに殆ど書いてある。
何を見ているのかについてはまだ一番得意な日本語にさえうまく翻訳できない。
たぶんそれは自分の顔にも書いてあって、毎日鏡で見ているのに。
鏡文字は読むのに時間がかかる。
いやはや。
うなづき方や、質問のしかた、笑い方、歩き方、を全部含めた顔。
うまくいえないけれど、人間の全てから肉体的特徴を引いたときに残るもの。
物理的な顔ではないんだけど、でもそれがやっぱり物理的な顔を窓として見えてくる。
顔には目があるからかもしれない。
目から光を出してるのか、なんなのか、分からないが、謙虚でありながら恐れない目はそれだけで宝石のように、そうでないものの中からくっきり浮き立っている。
それが見えてから、(正確には、見てきたものがそれだと気づいてから)色々なことが分かりやすくなった。
一瞬で見つけることも、見つけてもらうこともできるようになった。
「顔に書いてある」という表現があるけれど、ほんとに殆ど書いてある。
何を見ているのかについてはまだ一番得意な日本語にさえうまく翻訳できない。
たぶんそれは自分の顔にも書いてあって、毎日鏡で見ているのに。
鏡文字は読むのに時間がかかる。
いやはや。
4.06.2009
トポロジー
よく話が飛ぶと人に言われる、というその人は実は同じ話をずっとしている。
前も書いたが、話というのは結局のところ一つであって、楽しい、悲しい、浅い、深い、色んな形容詞がつけられる一方で全てが繋がっている。
その繋がっているという意識を持って話していない人の感覚はなんというか分断されている。
話は似たような要素を持ったものにシフトしなければならなかったり、同じ深度を持っていなければならなかったり。
よく言う「空気を読む」という言葉もこのシフトのスピードや深度の認識についていわれるように思う。
要するに枝葉末節だ。
同じ枝について話していても、吸い上げられた養分について考えながら話すのと、そうではないのでは相当の隔たりがあって、隣の枝について話しただけで、話題が変わったことについてガタガタいわれるのだ。
話すとき、目には見えない何かをイメージしながら、それを伝えようとする。
たとえばそれがマグカップの形をしていて、自分からはハンドルが右にあるように見えていたとしても、それが相手からもそう見えるかは甚だ疑わしい。
場合によっては真上から見ていたりするわけで。
お互い話を聞くことでそれがマグカップであり、それがどちらを向いているのかも(=自分がどちらからそれを眺めているのか)分かってくる。
まったくもってコーヒーカップとドーナツが同じ形とするトポロジーと同じ作業、と思える。
そして会話はここからだ。
単に会話と言ってもなかなか奥が深いもんです。
前も書いたが、話というのは結局のところ一つであって、楽しい、悲しい、浅い、深い、色んな形容詞がつけられる一方で全てが繋がっている。
その繋がっているという意識を持って話していない人の感覚はなんというか分断されている。
話は似たような要素を持ったものにシフトしなければならなかったり、同じ深度を持っていなければならなかったり。
よく言う「空気を読む」という言葉もこのシフトのスピードや深度の認識についていわれるように思う。
要するに枝葉末節だ。
同じ枝について話していても、吸い上げられた養分について考えながら話すのと、そうではないのでは相当の隔たりがあって、隣の枝について話しただけで、話題が変わったことについてガタガタいわれるのだ。
話すとき、目には見えない何かをイメージしながら、それを伝えようとする。
たとえばそれがマグカップの形をしていて、自分からはハンドルが右にあるように見えていたとしても、それが相手からもそう見えるかは甚だ疑わしい。
場合によっては真上から見ていたりするわけで。
お互い話を聞くことでそれがマグカップであり、それがどちらを向いているのかも(=自分がどちらからそれを眺めているのか)分かってくる。
まったくもってコーヒーカップとドーナツが同じ形とするトポロジーと同じ作業、と思える。
そして会話はここからだ。
単に会話と言ってもなかなか奥が深いもんです。
4.05.2009
枯山水
音を聞きに行った。
物音と音楽の中間くらいの「音楽」を。
一日中動き回って疲労していたせいか、どうも集中できず、やや幽体離脱気味な思考状態になり、それを聞きながらも、「なぜこういう音が好きなのか」ということについて考えた。
朦朧とした脳で考えたところの結論は:見出すことで意識される/意識することで見出される日常や自然の音の存在を美しさを損なわずに伝えるから。
たとえば電車に乗っているときの電車のリズムや人が歩くときのステップや衣擦れの音-そんな音が心底好きだ。美しいと思う。
けれどそれをかき消したり、その存在を気づきにくくさせる音も同時に存在している。
私としては、それに関してイライラはしないけども、基本的にはまったくもってあきらめている。
だからこそきっと、そんな何気ない音がすっと掬い上げられ、個人のいわゆる特徴的という意味の個性を足すことなく(結果として区別的・差別的な個性にはなるものの)目の前に提示されたとき、自然と人間の中間地点であるかのごとき枯山水を見るような喜びを味わうんだろうと思う、私は。
個が個であればあるほど全体に近づくかのような、見れば見るほど見えなくなるようなアンビバレントなものこそ私は信じる。
結局それは自分が自分である確信の揺らぎ、そしてその揺らぎによって個の意識を得る、というような考えから来ているんだろうと思っているけども・・・。
ちょっとずれたのでこの話はまた今度。
とはいえ、話は結局一つしかなくて、何の話をしても同じ内容について違う言葉で話しているだけなんだろうとも思いつつ。
物音と音楽の中間くらいの「音楽」を。
一日中動き回って疲労していたせいか、どうも集中できず、やや幽体離脱気味な思考状態になり、それを聞きながらも、「なぜこういう音が好きなのか」ということについて考えた。
朦朧とした脳で考えたところの結論は:見出すことで意識される/意識することで見出される日常や自然の音の存在を美しさを損なわずに伝えるから。
たとえば電車に乗っているときの電車のリズムや人が歩くときのステップや衣擦れの音-そんな音が心底好きだ。美しいと思う。
けれどそれをかき消したり、その存在を気づきにくくさせる音も同時に存在している。
私としては、それに関してイライラはしないけども、基本的にはまったくもってあきらめている。
だからこそきっと、そんな何気ない音がすっと掬い上げられ、個人のいわゆる特徴的という意味の個性を足すことなく(結果として区別的・差別的な個性にはなるものの)目の前に提示されたとき、自然と人間の中間地点であるかのごとき枯山水を見るような喜びを味わうんだろうと思う、私は。
個が個であればあるほど全体に近づくかのような、見れば見るほど見えなくなるようなアンビバレントなものこそ私は信じる。
結局それは自分が自分である確信の揺らぎ、そしてその揺らぎによって個の意識を得る、というような考えから来ているんだろうと思っているけども・・・。
ちょっとずれたのでこの話はまた今度。
とはいえ、話は結局一つしかなくて、何の話をしても同じ内容について違う言葉で話しているだけなんだろうとも思いつつ。
4.03.2009
お疲れ様です(?)
ルールがあるのはいい。必要な時もある。けどそのルールがそもそもどうして必要とされたのか、については考えた方がいい。
多くのルールが安全と友好のために作られたのは想像に難くないが、ルールはルールだから守るのだとする鋼のような脳みその人たちにそれ自体が阻まれることもまれではない。
青信号になったからといってわき目も振らず直進する人たち(車が来るかもよ!)、メールを「お疲れ様です」から始める人たち(疲れてないかも!それに理由なく労われるのって気持ち悪いかも!)。
すべての理由をルールや世間一般の曖昧で無責任な「常識」に求め、ルールの理由には見向きもせず、ルールを破る人を糾弾したり奇異の目で見る人にはほとほと疲れているが、どうもそんな人に会ってしまったようだった。
厳密にはすれ違ったのだが。全くの他人に私が日本がだめになる責任の一端を負わされた(?)。
同じ言葉を返したかったが、他人に向き合えない人に向き合う言葉はない。
そしてそれすら伝わらないだろうと思うと限られた命というエネルギーをそんなことには使えない。
人生って選択の連続なんだなぁという全く論点の違う結論に少し驚きつつ今日も赤信号を渡る。
多くのルールが安全と友好のために作られたのは想像に難くないが、ルールはルールだから守るのだとする鋼のような脳みその人たちにそれ自体が阻まれることもまれではない。
青信号になったからといってわき目も振らず直進する人たち(車が来るかもよ!)、メールを「お疲れ様です」から始める人たち(疲れてないかも!それに理由なく労われるのって気持ち悪いかも!)。
すべての理由をルールや世間一般の曖昧で無責任な「常識」に求め、ルールの理由には見向きもせず、ルールを破る人を糾弾したり奇異の目で見る人にはほとほと疲れているが、どうもそんな人に会ってしまったようだった。
厳密にはすれ違ったのだが。全くの他人に私が日本がだめになる責任の一端を負わされた(?)。
同じ言葉を返したかったが、他人に向き合えない人に向き合う言葉はない。
そしてそれすら伝わらないだろうと思うと限られた命というエネルギーをそんなことには使えない。
人生って選択の連続なんだなぁという全く論点の違う結論に少し驚きつつ今日も赤信号を渡る。
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