7.09.2009

道のり

先日、しばらく展示していた作品を撤去した。
泣きたくなるほど途方に暮れながら展示した作品にはどこか特別な思いがあり、てきぱきと作業をすすめながらも、何かが終わっていく独特の静けさが心に残った。

展示というのは何度やっても特別な経験だ。
何かを作る人は作ることにだけ力を注いでいるわけではなく、それがどこにどう置かれるか、ということに心を砕くことは実はあまり気づかれていないような気がする。
気づくべきは作品そのものであって、それを実現するための行為は別に気づかれるべきことではないので、それでいいのだけど。
ミュージシャンにおけるライブのような緊張と興奮があるのは実は展示をしている時間やそれが終わる瞬間であって、作者はそれらを独り占めできる贅沢を持っている。

私は、どうも気質として道程を好むのか、単に怠惰なのか頭が悪いのかセンスが無いのか、ここに時間をかけることが多い。
口では早くできるようになりたい、とは言うものの、実は結構楽しんでいる。
その感覚は旅行のそれにも似ていて、早く目的地に着きたい反面、永遠に着きたくないような気持ちにもなる。
学生時代、数え切れないほど京都に各駅停車の電車で旅行をしたのもどうもそういうことと関係がありそうだ。

話を展示に戻すと、様々な可能性や様々な空気と関わりながら、自分の作品や自分と対話をするというのが私が「仕事」に求める要素なのかもしれないと最近はよく思う。
ゆっくりと時間をかけ、休んだり遊んだり食事をしたり悩んだりしながら一つ一つ場所を決め、何かを立ち上がらせる。
生きることに本当に似ている。
真剣であることと気を抜いていることと集中していることと散漫なこと、実はその全てがあって初めて見えてくる次元があり、それが本当に大切なことだ―と少なくとも私はよく思う。
そうできないことは少しずつでも排除していけばいいし、こちらが避けていればさほど寄ってくることもない。
様々な事情で急かされたり余裕がなくなったりすることもままあるけれど、そこは都合よくキリスト教的な「乗り越えられない試練は与えられない」を流用して前へ進む。
たとえそれが「頭が鈍いので、普通なら避けられたハードルも避けられなかった」ということだったとしても!
考えるべきときに考えるのと同様、考えるべきではないときに考えないのも一つの知恵。