本当に記憶力がない。
時間が連なって過去や未来がある、というコンセプト自体に興味が薄いからか、馬鹿なのか。
同時に計画能力もないし、整理能力もない。
先日、出会った人と意気投合し、話しこんでいたら、昨年に出展したイベントでも話し込んでいたことがだいぶあとになってわかった。
名刺交換までしそうになりやっと気づくという体たらく。
話した内容は前回とは全く違っていたのと、場所などのコンテクストが違っていた、けれども・・・、ねぇ。いつものことだが、自分に呆れる。
上記の言い訳のほかに言えることといえば人ではなく話を見ている、ということくらいか。
それに人や会った回数によって話す内容を変えていないので、共感を得にくい考えについて語るときの相手の「引き」方や「ノリ」方によってのみ人を識別しているといっても過言ではなかったりして。
「へぇ、ここで引くんだ」とか「この人とは話が展開するなぁ」とか。
結局他人に興味がないんだ、と、私をよく知る人にはよく言われる。
ま、そうかもしれない。
何にせよ、いろいろなミネラルの通り道としての人間(何かが人間に吸収されて排出されるということは車がトンネルを通るように、人間が通り道なのかも、という観点で)よりも通るものに興味があるというのは最近感じる。
塩に対する興味とか、まるで思考が幽体離脱している、我ながら。
けどそれが本当にやめられない。
あぁ塩になりたい。
7.25.2010
7.04.2010
収穫期
一人の人間に対して、不思議なような、ありがたいような、すがすがしいような、熱いような、わくわくするような、新しいような、刺激的なような、穏やかなような気持ちになれるということ自体、恵まれていると思う。
この前の久々の会合の収穫は、今まで言い表しがたかった頭の中のバランスに言葉が与えられたことと、自分が、モノを作るという仕事をすることを選んだときに心のどこかに引っかかっていた小さな理由を改めて思い出せたということ。
その後者の理由は、前者のバランスという意識がない限り理解することのできないものだったので、このバランスが話題に上らない限り(そしてあまり上らない)自分の中に浮かんですらこないものだった。
その言葉はあえて書かないが、言葉と非言葉の間を行き来する、そのバランス感覚あってこそ私は非言葉を選んだのだ、という事実と選ばなかった言葉に対する態度。
自分の中にすでにずっとあって、そこにあったことは知っていても気づかないことはある。
もしくは忘れてしまう。
使わない脳神経は死に絶えるように、意識を向けない限りそれは埋もれていく。
それを掘り起こすことだけがいいとも思わないけれど、やはり必要な時に必要なことは起こるものだ。
そしてまた別方向から嬉しすぎる提案。
こちらは実現の際にまた改めて。
この前の久々の会合の収穫は、今まで言い表しがたかった頭の中のバランスに言葉が与えられたことと、自分が、モノを作るという仕事をすることを選んだときに心のどこかに引っかかっていた小さな理由を改めて思い出せたということ。
その後者の理由は、前者のバランスという意識がない限り理解することのできないものだったので、このバランスが話題に上らない限り(そしてあまり上らない)自分の中に浮かんですらこないものだった。
その言葉はあえて書かないが、言葉と非言葉の間を行き来する、そのバランス感覚あってこそ私は非言葉を選んだのだ、という事実と選ばなかった言葉に対する態度。
自分の中にすでにずっとあって、そこにあったことは知っていても気づかないことはある。
もしくは忘れてしまう。
使わない脳神経は死に絶えるように、意識を向けない限りそれは埋もれていく。
それを掘り起こすことだけがいいとも思わないけれど、やはり必要な時に必要なことは起こるものだ。
そしてまた別方向から嬉しすぎる提案。
こちらは実現の際にまた改めて。
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