不思議な音体験をした。
空の高いところから様々な地形の上を動きながら遠くを眺めているような音。
そういう「気持になる」というより、「それを見ている、と感じる」、という意味で「体験的」でニュートラル。
覚えているのも音ではなく、視覚的なイメージで、なだらかな丘陵や遠くの虹だったり、どこか共感覚的ですらあった。
声高に「地球」や「緑」や「環境」を礼賛するわけではないが、自然に作られたもののすごさにはいつも魅せられる。
水晶の結晶のしかたやクモの巣の仕組み、爪の伸び方や海岸線の美しさなど。
理由があるようで理由がなく、効率だけのようで効率だけではない、「そうなっちゃった」という有様には有と無のどちらをも感じる。
もしくはどちらでもない何か。もしくはその両方である何か。
それが場所だとしたら、人間もそこに立てると私は思っていて、そのためには削ぎ落すことと取り込むことや、意識を持ちながら無意識になる、という相反する状態を獲得することかな、と思う。
人生で、行きたい場所といえばそこだけしかないかもしれない、というくらいそこには行きたいと常に思っている。
上述した音にはその場所を目指す意志/(と意志抜きの)成り行きの両方が感じられ、それがピタッと私の意識とリンクしたような気がした。
更けゆく空の先端に「そこ」があるのでは、と、音を聞きながら明滅を繰り返すビルのライトを見る。
結局行きたいのはどこでもない場所だけだというのは過分に詩的なのかシニカルなのか。
7.31.2009
7.20.2009
全員支店長
私だけがその人たち全員を知っていながら、その中にはいない、という状況があり、それをちょっと外側から見たのだが、なかなか面白かった。
こことここが繋がるとこうなるのか、とか、自分のシナプスが人間に化けたような勝手な妄想までして楽しんだ。
最近は新たに人と知り合っても、結局共通の知人がいるということのほうが多い中、人と人は一体どうやって繋がるんだろうとつくづく不思議に思う。
まったくの赤の他人とも6人辿れば繋がるとかいう社会学の研究があったらしいが、6層どころか2層くらいで繋がる人の多さ。
不特定多数に発表するということをやっているのだから、まあ当たり前といえば当たり前なんだろうけども、実際、「出張の多い、全国規模の同じ会社に勤めている」と考えるほうがしっくりくるほどにそれぞれがそれぞれを知っていてそのつながりは巡っている。
横浜に行けば”横浜支店の田中さん”に会い、”静岡支店に最近赴任した山口さん”について話し、”杉並支店の斉藤さん”と”札幌支店の遠藤さん”が遠縁だと知る、という、そんな会社。
固定給も昇進もボーナスもないし上司もいない、この会社、解雇がないからといっていいことだけではないけど、実際結構悪くない。
こことここが繋がるとこうなるのか、とか、自分のシナプスが人間に化けたような勝手な妄想までして楽しんだ。
最近は新たに人と知り合っても、結局共通の知人がいるということのほうが多い中、人と人は一体どうやって繋がるんだろうとつくづく不思議に思う。
まったくの赤の他人とも6人辿れば繋がるとかいう社会学の研究があったらしいが、6層どころか2層くらいで繋がる人の多さ。
不特定多数に発表するということをやっているのだから、まあ当たり前といえば当たり前なんだろうけども、実際、「出張の多い、全国規模の同じ会社に勤めている」と考えるほうがしっくりくるほどにそれぞれがそれぞれを知っていてそのつながりは巡っている。
横浜に行けば”横浜支店の田中さん”に会い、”静岡支店に最近赴任した山口さん”について話し、”杉並支店の斉藤さん”と”札幌支店の遠藤さん”が遠縁だと知る、という、そんな会社。
固定給も昇進もボーナスもないし上司もいない、この会社、解雇がないからといっていいことだけではないけど、実際結構悪くない。
7.09.2009
道のり
先日、しばらく展示していた作品を撤去した。
泣きたくなるほど途方に暮れながら展示した作品にはどこか特別な思いがあり、てきぱきと作業をすすめながらも、何かが終わっていく独特の静けさが心に残った。
展示というのは何度やっても特別な経験だ。
何かを作る人は作ることにだけ力を注いでいるわけではなく、それがどこにどう置かれるか、ということに心を砕くことは実はあまり気づかれていないような気がする。
気づくべきは作品そのものであって、それを実現するための行為は別に気づかれるべきことではないので、それでいいのだけど。
ミュージシャンにおけるライブのような緊張と興奮があるのは実は展示をしている時間やそれが終わる瞬間であって、作者はそれらを独り占めできる贅沢を持っている。
私は、どうも気質として道程を好むのか、単に怠惰なのか頭が悪いのかセンスが無いのか、ここに時間をかけることが多い。
口では早くできるようになりたい、とは言うものの、実は結構楽しんでいる。
その感覚は旅行のそれにも似ていて、早く目的地に着きたい反面、永遠に着きたくないような気持ちにもなる。
学生時代、数え切れないほど京都に各駅停車の電車で旅行をしたのもどうもそういうことと関係がありそうだ。
話を展示に戻すと、様々な可能性や様々な空気と関わりながら、自分の作品や自分と対話をするというのが私が「仕事」に求める要素なのかもしれないと最近はよく思う。
ゆっくりと時間をかけ、休んだり遊んだり食事をしたり悩んだりしながら一つ一つ場所を決め、何かを立ち上がらせる。
生きることに本当に似ている。
真剣であることと気を抜いていることと集中していることと散漫なこと、実はその全てがあって初めて見えてくる次元があり、それが本当に大切なことだ―と少なくとも私はよく思う。
そうできないことは少しずつでも排除していけばいいし、こちらが避けていればさほど寄ってくることもない。
様々な事情で急かされたり余裕がなくなったりすることもままあるけれど、そこは都合よくキリスト教的な「乗り越えられない試練は与えられない」を流用して前へ進む。
たとえそれが「頭が鈍いので、普通なら避けられたハードルも避けられなかった」ということだったとしても!
考えるべきときに考えるのと同様、考えるべきではないときに考えないのも一つの知恵。
泣きたくなるほど途方に暮れながら展示した作品にはどこか特別な思いがあり、てきぱきと作業をすすめながらも、何かが終わっていく独特の静けさが心に残った。
展示というのは何度やっても特別な経験だ。
何かを作る人は作ることにだけ力を注いでいるわけではなく、それがどこにどう置かれるか、ということに心を砕くことは実はあまり気づかれていないような気がする。
気づくべきは作品そのものであって、それを実現するための行為は別に気づかれるべきことではないので、それでいいのだけど。
ミュージシャンにおけるライブのような緊張と興奮があるのは実は展示をしている時間やそれが終わる瞬間であって、作者はそれらを独り占めできる贅沢を持っている。
私は、どうも気質として道程を好むのか、単に怠惰なのか頭が悪いのかセンスが無いのか、ここに時間をかけることが多い。
口では早くできるようになりたい、とは言うものの、実は結構楽しんでいる。
その感覚は旅行のそれにも似ていて、早く目的地に着きたい反面、永遠に着きたくないような気持ちにもなる。
学生時代、数え切れないほど京都に各駅停車の電車で旅行をしたのもどうもそういうことと関係がありそうだ。
話を展示に戻すと、様々な可能性や様々な空気と関わりながら、自分の作品や自分と対話をするというのが私が「仕事」に求める要素なのかもしれないと最近はよく思う。
ゆっくりと時間をかけ、休んだり遊んだり食事をしたり悩んだりしながら一つ一つ場所を決め、何かを立ち上がらせる。
生きることに本当に似ている。
真剣であることと気を抜いていることと集中していることと散漫なこと、実はその全てがあって初めて見えてくる次元があり、それが本当に大切なことだ―と少なくとも私はよく思う。
そうできないことは少しずつでも排除していけばいいし、こちらが避けていればさほど寄ってくることもない。
様々な事情で急かされたり余裕がなくなったりすることもままあるけれど、そこは都合よくキリスト教的な「乗り越えられない試練は与えられない」を流用して前へ進む。
たとえそれが「頭が鈍いので、普通なら避けられたハードルも避けられなかった」ということだったとしても!
考えるべきときに考えるのと同様、考えるべきではないときに考えないのも一つの知恵。
7.08.2009
脱皮とドア
離れがたいというわけではない。だいたいいつもあっさりと別れる。
どこかで、離れるとか離れないとかそういうことが問題ではないという意識も働きつつ、だったらどちらかが「ココ」にいない状況でも何の影響もないはずなのに、会ったときの充実感たるや、「会いたい」と思ってしまいそうになるほど。
会いたくないわけではまったく無く、実際よく会いたいと思ってしまうけれど、会いたいという気持ちともきっとどこかが決定的に違う。
そういう積極性によって交差する関係ではないというか。
補い合うわけではなく、単に隣で成長する木の芽同士、かのような。
同じ養分を吸い上げ、同じ光を浴び、葉を触れ合わせることなく、互いに花を咲かせる。
そして二人が話す言語は同じで、風の読み方も同じなのだ。
実は最初、その人の存在が信じられなかった。
何かを得て初めて「自分はこれが欲しかったんだ!」と気づくことがあるが、知り合ってすぐにそう感じた。
その年はそう思える人に数人出会うことができ、次々と自分が何を求めていたかを気づかされることになった。
おかげで、七夕の短冊に堂々と書けるような潔さでは意識すらしていなかったところに今では自由に行き来できる。意識の皮が剥けたかのよう。
今では人に出会うこと自体がドアを開けることだとはっきり五感で知覚している。
思えばこれも、その人に出会うことから始まったことのような気がする。
憶測や想像や邪推による押し付けがましい感謝はしないようにしたいが、やはり結果としての感謝はしておきたい。
私の思うところの「優しさ」―優しさは結果の一解釈であり、当然の行動をとった当人は「優しさ」を意識できない―と似て、感謝された方としてはワケのわからない話なんだろうけれど、ま、一応、いつか感謝の言葉を述べてみよう、かな。
どこかで、離れるとか離れないとかそういうことが問題ではないという意識も働きつつ、だったらどちらかが「ココ」にいない状況でも何の影響もないはずなのに、会ったときの充実感たるや、「会いたい」と思ってしまいそうになるほど。
会いたくないわけではまったく無く、実際よく会いたいと思ってしまうけれど、会いたいという気持ちともきっとどこかが決定的に違う。
そういう積極性によって交差する関係ではないというか。
補い合うわけではなく、単に隣で成長する木の芽同士、かのような。
同じ養分を吸い上げ、同じ光を浴び、葉を触れ合わせることなく、互いに花を咲かせる。
そして二人が話す言語は同じで、風の読み方も同じなのだ。
実は最初、その人の存在が信じられなかった。
何かを得て初めて「自分はこれが欲しかったんだ!」と気づくことがあるが、知り合ってすぐにそう感じた。
その年はそう思える人に数人出会うことができ、次々と自分が何を求めていたかを気づかされることになった。
おかげで、七夕の短冊に堂々と書けるような潔さでは意識すらしていなかったところに今では自由に行き来できる。意識の皮が剥けたかのよう。
今では人に出会うこと自体がドアを開けることだとはっきり五感で知覚している。
思えばこれも、その人に出会うことから始まったことのような気がする。
憶測や想像や邪推による押し付けがましい感謝はしないようにしたいが、やはり結果としての感謝はしておきたい。
私の思うところの「優しさ」―優しさは結果の一解釈であり、当然の行動をとった当人は「優しさ」を意識できない―と似て、感謝された方としてはワケのわからない話なんだろうけれど、ま、一応、いつか感謝の言葉を述べてみよう、かな。
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