最近知り合い、親しくなった人と10年以上も前に同じ場所で同じことをしていたことが昨日分かった。
目に見えない糸が急に見えたような、驚きと喜びがあった。
他人と同じ道を辿ることはできないが、触れ合い、すれ違い、少しなら一緒に歩くことすらできる。
そのとき目が合うかどうかは別として。
ずっと隣にいても背中を向け合っている場合もあるし、互いに常にふらふらしてるのに、相手のほうを見ると必ずこちらを見ている、という人もいる。
交差するXの字のように一点でしか触れ合わず、その後はただ離れていくだけの人やYの字のような関係もある。
消失点で交わる二本の線路のように、実際には交わっていなくても、ある視点からならそう見える関係もある。
もちろん一点の結びつきにも理由や意味があると思えるけれども、それはおそらくその人の存在に理由があるのではなく、その人との関係そのものに意味がある。
お互いが宅配便の配達人になったかのような、届け、受け取り、立ち去る、そんな「役目」を負っている。
二点が交わることは稀だ。
二点が交わるとき、関係だけではなく、その人を知ることに何か大事な理由がある。
一点と二点、どちらが重要かが問題なのではなく、それはただ違う。
いずれにせよ、出会う人がどちらなのかはなんとなく分かる―「目が合う」感じで。
普段はこちらを見ないのにこちらを「ふと」見た感じや、常にその方向を意識していながら「ふと」見た感じで。
この交差したりしなかったりする様子、自分と他者で考えると、どれだけ左右にぶれようが、ジグザグ歩行をしていようが、それは対社会的な揺れであって、常に自分は「まっすぐ」なので、超主観的に考えると、木と、木にに止まりに来る鳥の関係のようなものに見える。
巣を作るものもいれば、木の寿命を上回るサイクルで戻ってくる渡り鳥もいる。
もちろんその中間もそれ以外も。
前述の「ふと」は鳥の声とも言える。
この、聞き分け、見分けながらも互いに彷徨う感じ。意思の森はどこまで深いのか。