かなりの頻度で訪ねるという理由において偶然と言えるほどの偶然ではないにせよ、立ち寄った先でケーキが私に食べられるのを待っていた、というシチュエーションはいろいろな方面に感謝すべき偶然と思える。
しかもちょっとご無沙汰だったり、たまにその場所で会いはするものの、実は連絡先を知らない、敬愛すべき人たちが大集合していて、呼ばれていたクリスマスパーティに遅れて顔を出したような気分。
実際は呼ばれてもいないし、クリスマスも祝わないけども。
ふらっとどこかに行く場合、やっぱり何かがふらっと起きる。
呼ばれているというか、導かれているというか。
結局のところ最近よく感じるのが、自分という存在を作る要素は自分の体には収まりきれずにだらだらとはみ出している、ということで、だからこそ、他人やモノのはみ出した部分から呼ばれたり避けられたりして、日々自分の知らない自分に”操られている”のかも!ということ。
逆にいえば、操られていると感じることでそれはすでに操られてないわけだから、無為/無意に委ねると解釈もできるのか。
とにかくその(肉体に収まることのない)全体像としての姿を意識して感じていればいい、ということなんだろうと思う。
積極的に漂流していきます。