人前で発表するなんて嫌いだ、だから物を作って(代弁させて)いるのに、とぶつぶついいながら発表している人を見た。
そして彼女は言葉で語ることの無為について「語り」、聴衆に沈黙を強いた。
何重にもひっかかるところがあって、どこがスタート地点なのかもよくわからないけど、やはり「(自分は)言葉では現せないからものを作っている」という認識に対する違和感かもしれない。
言葉では表せないことを現すのはいいし、自分が言葉では言い表せないのも別に知ったことではないが、それって因果関係?と。
彼女は、沈黙こそが最も雄弁であることに気付いてほしい、というようなことも言っていた(だからこそそれを強いたわけだろうけど)が、あまりに陳腐で赤面しそうになった(または最近意気揚々と飲んでいるビールのせいで本当に赤面していた)。
自分の表現方法を信じるのはいい。それを人に語るのも自由。
ただ、真に豊かな言葉でのみ発掘しうる、語られ得ぬ地層に到達しようとする有様をも捨てるのを強要しないでほしかった。
表現の定義にもよるけれど、それが己を「出す」だけではなく「映し」たり、「示し」たり、「探る」ことをも含むのなら、言葉の否定は自己矛盾を生むはず。
少なくとも私が思う言葉は氷山を掘るスコップのように、「足らないけど、無いよりはまし。たどり着こうと/掘りだそうとはしている。」態度そのものなので。
こんな私の勝手な定義に共感があまりないのも含め、個々人の定義が違うのは構わないし、パフォーマンスとしてなら、それを押しつけがましく見せられるのもそこまでいやではないが、意見として、聴衆を前に語られるのを聞くのは単純にきつかった。
きっと私が上記のようなことを聴衆の前で語るとしても、多くにとって、それは「きつい」んだろうとは踏まえた上で・・・。
いずれにせよ、言葉を介さないイメージを作る人たちの中に多い、「言葉否定派」。
自分の言語表現能力が低い、とだけどうして言えないのか、本当に疑問。
実際低くて悪いなんて誰も言ってないんだし、「走るのが遅い」と同じ、人それぞれに備わった資質なのに。
「私、くせ毛なんです」くらい、「あそう(それでどうしたの?)」っていう内容なんだと思うんだけど・・・。