よく話が飛ぶと人に言われる、というその人は実は同じ話をずっとしている。
前も書いたが、話というのは結局のところ一つであって、楽しい、悲しい、浅い、深い、色んな形容詞がつけられる一方で全てが繋がっている。
その繋がっているという意識を持って話していない人の感覚はなんというか分断されている。
話は似たような要素を持ったものにシフトしなければならなかったり、同じ深度を持っていなければならなかったり。
よく言う「空気を読む」という言葉もこのシフトのスピードや深度の認識についていわれるように思う。
要するに枝葉末節だ。
同じ枝について話していても、吸い上げられた養分について考えながら話すのと、そうではないのでは相当の隔たりがあって、隣の枝について話しただけで、話題が変わったことについてガタガタいわれるのだ。
話すとき、目には見えない何かをイメージしながら、それを伝えようとする。
たとえばそれがマグカップの形をしていて、自分からはハンドルが右にあるように見えていたとしても、それが相手からもそう見えるかは甚だ疑わしい。
場合によっては真上から見ていたりするわけで。
お互い話を聞くことでそれがマグカップであり、それがどちらを向いているのかも(=自分がどちらからそれを眺めているのか)分かってくる。
まったくもってコーヒーカップとドーナツが同じ形とするトポロジーと同じ作業、と思える。
そして会話はここからだ。
単に会話と言ってもなかなか奥が深いもんです。