ゆっくりとだが、こうなればいいなぁ、こうしてみたいなぁと口に出したことが現実になってきている。
言霊とかアファーメーションとかいろいろ言われ方はあるけども、私としては、ある種の波動のようなものが自分の体を通り抜ける過程での一つの効果では、と思っている。
先日、絶妙なタイミングで動的平衡という概念についての本を読んだことも影響しているかもしれない。
生命活動そのものが、移り変わりながらそれ自体を維持するシステムであり、効果であるという考え。
ミクロな生物学の世界においては、身体はタンパク質の「淀み」である、という表現もあり、自分が日ごろ感じている「感じ」があまりにぴたっと学術的に表現されているのがもはや可笑しかった。
体や概念や物体の「切れ目」「境目」「輪郭」が基本的に感覚としてわからない私としては、その本に出てきた、「生物学的には胃の中も”体外”である(胃が分解吸収される以前の状態の貯蔵庫であり、内部としての体に取り込まれていない)」という表現や人間とチクワのトポロジー(!)(人間は口から肛門に至る一本の”外部としての管”に貫かれた存在である)にもいたく感銘を受けた。
ともあれ、結局、「希望」や「想像」も何かが管としての/分子の淀みとしての自分に取り込まれた結果として発生し、そののち周りの分子や波動やらを取り込んだり集めたりした効果として、それが「そうなる」のは大局的に考えればいたって自然な営みのようにも思えるのだ。
極私的には「奇跡」という感覚や「感謝」の気持はもちろんあるし、決して軽視していないけれど、それらすら「ただある」ことの過程で生成される状況なのかもしれない。
で、何が言いたいんだっけ、と考えると、結局どこまで透明になれるのか、透明な淀みになれるのか、ということなのかもしれないなと思う。
輪郭もすべて消し去って、自由に内部と外部が交わるような淀み。
まだまだ黒々とした淀みである私としては先の長い話ではあるが、そう願う・願えることはそうなれることの側面であるとするなら、きっといずれ透き通るのだろう。
その黒さにおいて迷惑をかけられている周りの人たちには、今しばらく辛抱してもらうしかない。
どうぞよろしく。